ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

フィンランドの教育

 「これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る」(箴言1:2〜5)。
 図書館で福田誠治著『フィンランドはもう「学力」の先を行っている』という本を借りて読みましたが、その頃朝日新聞では国家教育委員化のピトゥカラ委員長が、多少学力低下した事を受け対策を考えているところで、インタビューを受けていました(12月19日)。一方東京新聞は3回に分けて、フィンランドの教育現場をルポしていました(12月16〜19日)。さらにハフポストジャパンでも、12月18日フィンランドの教育制度をキウル教育科学大臣が語っていました。
 これだけの資料が揃ったところで、初めてフィンランドの教育を突っ込んで勉強してみました。
画像はネットから借用。
 まず学校制度ですが、保育園での就学前教育(6歳)があり、次に9年制の基礎教育(7歳〜16歳)(小学校と中学校)、高等学校教育(2〜4年)及び53種類にわたる基礎職業教育専門学校、大学、大学院などとなっています。
 そして大きな特徴は大学院を除きこれらの教育が全て無償であり、その為に国家および自治体の予算の11〜12%が教育に充てられている事です。
 教育の理念は「勉強は自分のためにするもの」という事になります。国家教育委員化のピトゥカラ委員長は、「一番大事なのは、『先生が教える』から、『生徒が学ぶ』という文化に変えること」と言っています。「公正さを失わず、一人ひとりの力を伸ばすことで社会の発展を目指そうとする福祉国家の原則は古びていない」(東京新聞)のです。「子どもが自ら、個人的にあるいは共同して知識や技能を構成していくという活動的・積極的な学習を原点にお」いています(福田氏)。
 ですから福田氏の本を読んでみると、「基礎教育」の現場を歩いて、つぶさに生徒や先生の事を観察していますが、小学校から早くも本格的なもの作りの授業が盛んで、「工芸、工業技術、織物」は全ての生徒が取り組んでいます。電動ドリル、電気釜等々があるのが、写真から分かります。それから中学に進級すると、さらにもの作りは本格化します。家庭科の中にある編み物や料理は特に人気があるようです。社会科で言えば、「教育の目的は、生徒が寛容的で民主的な市民に成長することを支援し、社会的行為を経験させ、影響を及ぼす民主的な経験を与えること」(福田氏)となっています。
 私も小学校下級の頃、建築や船舶の模型を組立てたりして、理科系のもの作りに大いなる興味を示した事があります。しかし中学の頃はもう高校受験の為に懸命に勉強し、もの作りどころではなくなっていました。後に大学闘争後就職した板金会社では、建築板金に大きな関心を示したものの、フィンランドのように、中学の頃の徹底した技術教育を受けていないので、遂に溶接とかプレスの技術が身に付きませんでした。しかも中高では勉強に明け暮れ、自分が将来一体何をしたいのかという問題意識も培う機会がなかったので、社会に出てからそうした技術に初めて目を開かれながらも、遅すぎるという皮肉な結果になっていたわけです。そこがフィンランドと決定的に異なりました。
 高校進学と同時に用意されてある専門学校の教育では、もう就職の為に高度な技術を学ぶシステムになっていました。学力・学歴ではなく、実力の世界でした。
 大学はと言えば、教員になりたい学生が多く、この時の入試から初めて競争原理が働くようになるそうです。
 ざっと見て来ましたが、境域先進国であるフィンランドは、2012年、経済協力開発機構OECD)の行った学習到達度調査で、順位を落としました。
 ピトゥカラ氏は「子どもの忍耐力、集中力、やる気がなくなってきている。すぐに結果のわかる、スマートフォンなどの情報端末の普及が一員ではないか」と分析していますが、それは当たっていると思います。それはフィンランドの子どもたちに対する警鐘であり、また今急速に携帯端末機器の依存症にかかっている日本の将来にも、大きな疑問を与える結果となっています。
 とにかく日本とフィンランドの教育制度の違い、いかに日本の学力が優れようと、技術的にも社会的にも全く遅れをとっており、今後も総体的人間の育成でフィンランドを抜く事はあり得ないでしょう。