ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

学校の当たり前をやめる事

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」(イザヤ43:19)。

今までの慣行、習わしを廃止して、何か新しい事を行うというのは、守旧派からの反対を受け、なかなか難しい。イエス・キリストでさえ、旧約の言伝を死守しようとするユダヤパリサイ派などから、猛烈な反発を食らわされた。

東京都千代田区にある麹町中学は、都民には良く知られた存在だ。私たちの世代では東大合格者トップの日比谷高校を狙う生徒がそこに多くいた。

麹町中学は受験のノウハウをたくさん蓄積して来たと思う。

2014年赴任して来た工藤勇一校長は、中学教員、教育委員会職員等を経ている。全てが順風満帆だったら、「学校の『当たり前』をやめた」という本を出す事もなかったと思う。

私は学生時代まだ信仰を持っていなかった時、マックス・ウエーバーの社会学と出会い、目的合理的行為(≒目的を最終的に実現させる為の合理的行為)とか、価値合理的行為(≒試行錯誤の過程を重視すれば、一般に合理的ではないが、或る価値観からすれば合理的になる行為)等々を学んだ。キリストの教えは典型的な後者だと思う。唯一信仰だけで人は正しいと見做される事など、合理的行為を押し付けるパリサイ派には到底理解出来ない事だったし、許容出来なかった。

それを思いながら、この本を読むと良く分かる。学校教育の本来の目的は、生徒が社会に出た時、よりよく生きて行けるように育てる事が主旨だが、工藤氏はその為の手段である学習指導要領や教科書、服装指導など諸々の規則、いや学校そのものが目的化されてしまっている事が問題だ、と主張するのである。本末転倒という事だ。

だから工藤氏は第一章の始めから、宿題の廃止、定期考査の全廃、固定担任制廃止、運動会のクラス対抗の廃止、目標をスローガンとしないこと、生徒指導の廃止、書く指導の過程重視、NOT心の教育などを、次々と断行して来た事を述べている。結果的に生徒一人一人が生き生きとし始めたのは言うまでもない。

第二章では、その手段の目的化という学校教育の欠陥を縦横に展開し、真っ向から慣習を守る世の学校に、問題を提起している。

第三章では一歩進んで新しい学校教育の創造の実践例を紹介している。冒頭の聖句は「見よ、わたしは新しいことをおこなう」とある。旧約の預言者イザヤは、来るべきイエス・キリストを指してそう言った。そのキリストが来ると、旧約と全く異なる新しい創造(ガラテヤ6:15)がなされた。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」(ローマ3:24,25)という事である。しかしそのために「祭司長たちがねたみからイエスを引き渡した」のも事実だ。

工藤氏はその点卓抜な指導力を発揮し、守旧派の反対を抑えて教育改革を実行した。

第四章で工藤氏は「日本にモデルのない学校を創る熱い思い」を語った。さながら「コペルニクス的転回」のようだ。

第五章で光るのが、学校の「当たり前」を疑う事から始めよという勧めである。これも全てを徹底的に疑うデカルトに似ている。ただ彼は「我思う、ゆえに我あり」から一歩先に進む事は出来なかった。絶対的真理はイエス・キリストとそのみことばのうちにある。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)。勿論公立の学校ではそこまで踏み込めないから、工藤校長の薫陶を受けた生徒は、キリスト教に基づく高校や大学に進む事を推薦する。

学校の指針について行けず、不登校になってしまった子ら、いじめなどで落ちこぼれた子ら、そしてその親にとっては、この本は福音となり、大いに示唆を与えると思う。