ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

苅谷剛彦著『学力と階層』を読んで

 「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:13)。 
 血とは父祖をアブラハムとするユダヤ人の血筋の事です。肉の欲求は生まれつきの人の願望です。人の意欲とは、その人の努力や意志などを指します。キリストによる救いは、万人に共通で、こうした家系とか学習意欲で律法知識を身につけてといった行いによらず、全て「信仰」という一点にかかっています。

 苅谷剛彦氏は現在英国オックスフォード大学教授、長らく東大教授として統計学を駆使して教育論を展開して来ました。その初期から教育の格差を述べた著作を次々と出し、教育界に大きな波紋を投げかけて来ました。
紀伊國屋書店サイトから拝借)
 米国のレーガン、英国のサッチャーらによって提唱された新自由主義は、1990年代に至って、経済分野ばかりでなく教育分野にも浸透し、教育の市場化が現在定着しつつあります。日本では小泉政権からそれが加速されて来たのは、周知の事実です。
 自由主義は1970年代頃までは社会的平等という考え方も伴っていましたが、新自由主義ではそうしたものが消えて、個人的自由という事が極端に強調されるようになりました。そこでは政府による市場への介入が抑制され、社会的福祉や個人的平等といった機構や考え方が切り捨てられ、小さな政府が礼賛されます。
 その中での教育の市場化は、苅谷氏の定義では少し難しく、ネットの情報から自分なりに簡単に考えて見ますと、教育を市場での自由競争に全て任せてしまう事でしょう。そうなると、個人や教育を施す学校の価値が、偏差値などを基にして決まってしまい(個人が賜物としてかけがえのない個性を与えられ、優劣など存在させない神の原理にはなはだ反する)、良い学校に入った者が有利になり、落ちこぼれた者は、もはや滑り台を這い上がれず貧困化の一途を辿るようになります。
 苅谷氏の考え方をこの本から理解するには、その第一章を読むのが肝要です。確かにそこでは統計的手法が駆使され(重回帰分析なども図表として入っています)、そうした学問に精通していない人には、少々分かりづらいですが、そこは飛ばして見て行きます。苅谷氏は「学力と階層」という主題を展開する為、ここであらゆる階層の小学生・中学生(そして後で高校も含む)、及びその保護者に対してアンケート調査を行ない、図表で示しています。それを見ますと学習意欲・学習行動・学力が、社会階層上位、中位、下位の家庭によって、明確な違いを見せている事が分かります。この差異が社会的な出自(生まれ)によって生まれている事が立証されたと言えます。即ち上位にある階層の親は高学歴・高収入であり、子どもを早くから塾に行かせ、優秀な子の集まる私立中高一貫校に合格させる事が出来ます。その子らは一流大学に入り、何不自由ない生活を享受する事が出来ます。
 一方階層下位の生徒は塾にもゆけず、勉強する意欲もなくなり(小学校より中学で格差が広がります)、当然テストの成績も下がる一方です。この出身階層による子どもたちの努力の差は、今も拡大する傾向にあるのだそうです。
 それゆえ努力=平等主義という私たちの世代には存在した図式は、もはや成立しません。それは幻想です。ですから個人の失敗は努力の欠如によるという指摘は、そう決めつける人のイデオロギー(信条)なのです。教育達成の不平等が全く隠ぺいされたままになっています。
 2章では義務教育の機会が個人間で平等に保たれていないばかりか、地域(都道府県)での格差をももたらしている事を、苅谷氏は指摘しています。ですから子どもは生まれ育つ家族、居住する地域を選べないので、地域による教育格差も出て来ます(米国では既にそれが定着)。
 3章では教える教員の問題が扱われ、4章で戦後教育や将来の事、終章で教育のほころびなどが語られ、この本は閉じられます。
 駆け足で見て来ましたが、教育の格差はその出自(生まれ)によって固定するという不平等さを、改めて見せつけられました。
 2012年12月12日の朝日新聞は国際学力調査の結果を報じていましたが、苅谷氏の主張である小学校より中学校の生徒の学ぶ意欲が低い事が裏付けられています。登場した3人の専門家に共通するコメントは、繰り返しますが日本の子どもの学ぶ意欲が低く、その向上は難しいという事でした。教育の市場化は日本を後退させつつあります。安藤忠雄氏のようなジャパニーズ・ドリームは、もはや実現出来ないほど深刻だと思います。