ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

浪江で頑張る鈴木新聞舗

 「そこで、彼らは、捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するようにと、ユダとエルサレムにおふれを出した」(エズラ10:7)。
 2018年2月から3月にかけて、朝日新聞の連載記事「てんでんこ」(=めいめいという意味)では、福島県浪江町の鈴木新聞舗が取り上げられていました。

 写真は17年4月に訪問した時、浪江駅から北方向を撮影したもので、鈴木新聞舗は中央から右手の奥で、駅から歩いて5分くらいの所にあります。町は東西30キロ、南北80キロという広大な面積を占めています。撮影当時はこの駅周辺はゴーストタウンのままでした。
 鈴木新聞舗は「1936年、朝日新聞社と契約を結び、配達業務を始めた」とありました。大震災まで75年、随分古くからある新聞店です。創業者は故鈴木宏氏、少年時代自転車で転んで怪我をし、右腕を付け根から切断していました。しかし負けず嫌いだった宏氏は、片手で自転車を繰り、この広大な地域に新聞を配り続けました。朝日だけでなく、地元の福島民友をも含め、大震災までに購読者が町の8割を占める「新聞の町」としました。宏氏は2200部を配達していました。
 それだけでなく、「浜通り選抜高校野球大会」なるものも立ち上げ、空から小型飛行機で始球式用のボールを落としたそうです。町からいわきに移住した教会員の人も、それをよく覚えていて、私に伝えてくれました。
 その購読がピークに達した時点で、宏氏は長男の宏二氏に経営を任せました。宏二氏も頑張って部数3200にまで伸ばしました。そして2010年次男裕次郎氏にバトンタッチしました。彼はまだ20代の若さでした。
 親子3代で順風満帆だった矢先の2011年3月11日、あの東日本大震災が生じました。「震度6強の揺れを観測し、65戸が全壊。15メートルを超える津波によって沿岸部の586戸が流失し、死者・行方不明者は182人にのばった」とあります。私も行ってみた海岸に近い請戸地区は、無残な津波被害で荒れ果てていました。
 そしてその後です。福島第一原発から8キロの浪江町中心では、原発爆発事故から7時間後、「屋内退避指示」が出されました。情報も途絶えました。
 しかしそこで宏二氏と裕次郎氏は避難せず踏みとどまりました。取りに行けなかった朝日を除き、福島民友と読売は確保したので、車にて出来るだけ配布する事が出来ました。避難した人々は皆食い入るように記事を眺めたそうです。情報が無い時のこの記事はどんなに貴重だった事でしょう。
 3月12日原発2号機事故による放射能大量放出で、無情にも風向きが午後北西となった為、放射能雲(プルーム)は、浪江から飯館方面へ流れて行きました。以後その町村は帰還困難になりました。二人は福島市二本松市に避難しました。
 2016年秋、浪江町民の一時帰宅が許可され、17年3月避難指示が解除される事になりました。しかし当初の帰還者数1000人に満たないとの予測で、経営を再開するかどうか、二人の間で激論となりました。
 でも裕次郎氏の強い意思で再開決定、2017年1月25日、5年10ヶ月ぶりに配達が始まりました。
 しかし3月末実際指定解除になっても、戻った人の数は4月で193人、契約を結べたのは40部のみでした。大きな試練となりました。また7月に長女が誕生しました。夫婦は今南相馬市に住んでいます。裕次郎氏はそこから新聞舗に通っています。休みは月1回だけ。妻は勿論放射能の事は心配ですし、夫の健康もそうです。夫を助け子どもを保育所に預けようと思いましたが、浪江町では18年4月に初めて保育園がオープンしたものの、0歳児は保育士がいないので受け入れられませんでした。今のところ品数が豊富なスーパーはなく、病院もありません。
 「配達員も集まらず、妻も働けない。配達部数は85部で頭打ち。経営的にも、体力的にも追い込まれていった」。18年3月末の居住人口703人とあります。まだそれだけ。新聞を読まない人もいるので、85部では絶対的に経営が成り立たないと、浪江出身の元銀行マンで、私の家から近く、親しくしている教会員も言っています。
 裕次郎氏は「町のインフラ整備や商店の進出を待ってから避難指示を解除すべきだったのではないか」と考えていますが、当然でしょう。でも解除になってしまった以上、浪江町の復興の為に頑張るしかありません。「この新聞を待っている人がいる限り続けたい」。私はこの鈴木新聞舗を心の中で応援します。