ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

浪江町希望の牧場の現在

 「みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください」(詩119:116)
 福島県浪江町の一部は2017年3月31日に指定解除となり、私はその直後の駅や町の中心を見て来ました。それはブログで記しましたが、まだほとんどと言ってよいほど、多くの区域が帰還困難のままです。ですから大堀相馬焼(これもブログで書きました)で有名な大堀地区も戻る事は出来ません。

 指定解除後視察しておくべきだったのは、その西北端近く、南相馬市小高区と境を接する立野地区にある吉沢牧場でした。又の名を「希望の牧場」といいます。写真左。

 牧場主吉沢正巳さんは3・11当日外で買い物をしていてすぐ戻り、牛たちのいのちを守りつつ、原発事故の様子を眺めていました。しかし放射能拡散の為、翌日原発から14キロほどの吉沢牧場を含む浪江町全域が、避難指示の対象となりました。そこは「警戒区域」として、原則立ち入りが禁止されました。写真右が吉沢さん。1時間のインタビューに応じて下さり感謝でした。
 牛たちは残され餓死するか、国の命令で殺処分となりました。
 しかし吉沢さんは殺処分に抗い、牧場の全ての牛を守り続けて来ました(詳しくはhttp://jafmate.jp/jmp/311/iidate_namie/001.html参照)。
 2017年10月30日この牧場を視察して来ました。国道6号を北上し、指定解除になった富岡、まだ立ち入る事の出来ない大熊・双葉町を横目でみながら、浪江町に到着、交差点を右折すると津波で甚大な被害の出た請戸地区、左折すると国道114号が川俣町方面まで続いています。
 この114号は9月20日に、私たち一般の者の車の走行だけが許可されました。なぜかと言いますと、浪江町のこの周辺はまだ帰還困難だからです。ゆえに道路の向かって左側、南方向への側道にはすべてバリケードがあって、警備員が不審者(=泥棒対策が主体)を排除する為、どこにでも立っていました。そして苅野地区室原(ここらは毎時1〜3マイクロシーベルト)を右折し県道34号を北上すると、吉沢牧場があります。

 入り口の看板は目立たず、右手に広大な牧場が広がっているのに見落とすところでした。ちなみに牧場反対側の森林は除染など出来ず、多いところで毎時10マイクロシーベルトはあるそうです。右下の写真は牧場の除染が終わり、搬出出来ないまま残っている黒のフレコンバッグ。その数1万5千袋、3億円もかけて除染、でも浪江に人は戻らず、家は解体され、更地が広がっているそうです。「それって意味ありますか?」吉沢さんは怒っています。
 写真右隅の道をゆくと、上記写真で示したように、写真や資料などで一杯の吉沢さんの「小屋」があります。全国から単独又はバスツァーなどで来る方々は、ここで吉沢さんから説明を受けていると思います。

 牧場で飼っているのは黒毛和牛です。この7年近く放射能で汚染され、商用価値の全くない牛たちです。訪問当日吉沢さんは重機を使って餌を集まって来た牛たちに与えていました。大きな白い袋に入っている餌を取り出し、重機に積んでは又別の牛の群れのところまで運んでいます。写真左上下。

 私が感動したのは、その牛たちの元気さです。この豊富な餌のお陰で、丸々と太っており、前回のブログの絵画の牛のイメージとは全然違いました。
 吉沢さんは300頭はいる牛の世話を、こうして毎日一人でやっています(累積放射能の量は相当だと思います)。自分が生きている限り続ける、汚染牛が生かされている、ここは実験牧場であり、被ばく別荘地帯であり、メモリアルファームなのです(吉沢さんの造語)。

 これを続ける事が国への無言の抗議となります。しかし吉沢さんはその作業だけにとどまりません。膨大な量の餌を確保する必要があります。それが無ければ牛たちは3・11の時と同じように餓死してしまいます。ですから吉沢さんは反原発のためのアピールも兼ねて全国を飛び回り、餌の為の支援を訴えています。年間1千万円以上の餌代がかかります。私もこの牛たちを生かす為「ご寄付のお願い」に応じなければいけないと思いました。2千、3千、5千、1万円、その他の欄のある、郵貯銀行の払い込み取り扱い票が機関紙BECO新聞についています。この新聞を希望の方はメールで尋ねて下さい(beconews@gmail.com)。希望の牧場〜ふくしま〜の非営利社団法人事務局(03−3496−2177)で詳しい事が訊けます。
 BECO新聞最新号に載っていましたが、「福島の犠牲の上に、東京の何気ない豊かな暮らしは成り立っている」。この構図東電原発事故から7年が近づいている現在、ますます真実となっています。聖書では7は完全数、7日が安息日、7年は安息の年ですが、被災地、被災者に安息の時はとてもやって来ないでしょう。