戊辰戦争の泉城
「【主】の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である』(箴言18:10)。
1868年6月平潟を出発した新政府軍は、陸前浜街道を北上し、植田から二手に分かれた。一方は泉城を攻め、もう一方は湯長谷城を攻める為であった。植田は日常的な買い物をしたり、教会のチラシを配っているので、ここを新政府軍が通過したのかと感慨深かった。それは泉城へと向う新政府軍が、泉町黒須野で激しい銃撃戦を繰り広げたとあれば、余計そうだった。
薩摩藩、備前藩、大村藩が、同盟軍を撃退し、もう泉城は間もなくの距離となった。私でもわけなく歩ける。
ところがこの泉城は「平城」で、どう見ても迎撃に耐えられない。
19年1月30日にこの付近を歩いたが、障害となるものは何も無い。だから直ぐに攻め落とせる。堅固でないやぐらだったようだ。写真下。
だから現在城跡とか当時の墓碑銘など無かった。上の写真は、ここに泉城があったという説明と、6代藩主の本多忠紀(ほんだただとし)についての記述と、左に見える赤玉の由来が記されているだけだった。この赤玉は本多が老中に就任した時、槍の穂先に太陽を象徴する朱天目(しゅてんもく)を掲げた為、赤玉本多という通称で親しまれたという。これは鉄釉を施した焼き物の事らしい。
付近には新築の家々が並ぶ。私の通う教会から徒歩10分位か。教会案内を配りながら、城址を見逃していたのは、上の写真にあるものだけの公園だったからだ。下写真
この城址からフェンス一つを隔てて、コンピューターカレッジが見える。
ここも泉城に含まれる土地だったそうだ。
新政府軍が攻撃した時、中はもぬけの殻だった。泉藩の人々は皆逃走していたのである。
だから新政府軍はいとも簡単にここを取り、翌日夕方には磐城平城まで近づいた。そこは同盟軍の本拠だった。平城の跡地を見ると、確かに堅固なやぐらだったように見える。そのうち又行ってみよう。