ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

会津鶴ヶ城

「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです』(コロサイ1:19-20)

 2015年は福島に移住したいという願いをもって、物件を探していた。しかし住んでいたマンションを売却して届く物件は、会津地方だけに集中していた。

 郡山などは賃貸専門の大手不動産屋に行っても、福島出身か、福島に勤めがある人しか家を貸さなかった。今はその逆で、福島県などは移住の勧めを率先してやっている。

 2015年6月は郡山のアパートにいて、二本松の森林除染をやりながら、物件を探していた。除染はきつい仕事で、毎日辞めようと思っていた。

 7月1日の貴重な安息日である日曜に、一度会津を見ておこうと思い、郡山から磐越西線に乗って、会津若松市に行った。駅から徒歩で鶴ヶ城に行ける。途中の店で雪の情報などを探りながら、歩いていた。

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 そして遂に鶴ヶ城址に到着した。とにかく立派な城が残っているというわけで、中に入った。以前姫路の北に住んでいた時も、立派な姫路城をいつも見ていたから、そんなには興奮しなかったが。

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 それは美しい城であった。あの戊辰戦争の激戦地だったところである。

 私は松平容保(まつだいらかたもり)という人を覚えている。名前の読み方を知らなかったので、調べていたからである。ところが先日のブログで書いたように、日本史に疎いので、この人が戊辰戦争を生き抜いた会津藩主とは知らなかった。

 会津藩はこの会津城を拠点に最後まで徹底抗戦した。それで白虎隊などの悲劇が生じたのである。

 容保はどうしていたのか?会津藩としては主戦論を掲げていたが、一方で和平工作も行われていた。容保自身は相当に苦悩していたであろう。そうした描写は歴史小説のほうが詳しい。佐藤民宝の『明治前夜』は、とても参考になった。

 和平案には藩主容保の蟄居と責任者の首級提出というのがあった。しかし熾烈な会津城攻防戦の末、容保は降伏を言い出し、遂に鶴ヶ城開城となった。

 彼は東京に護送され、そこに移住し、明治26年に肺炎で亡くなった。59歳だった。

 会津戦争での悲痛な思いは、ゲッセマネの園で、父なる神に祈ったイエス・キリストに通じる。容保と違ったのは、イエスが父のみこころを受け入れ、従容として十字架の死についた事だった。

 それによって初めて真の和解が可能になったのである。もし容保が切腹したとしても、そうはならなかった事は、歴史が証している。あくまで戊辰戦争150年なのだ。政府軍の非情な措置は、真の和解を困難にし、今日までそれが続いている。