パンドラと聖書のシナリオ
「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません」(ルカ12:2)
新型コロナウイルスの出現により、世界中でありとあらゆる邪悪なものが噴出している。まるで開いてしまったパンドラの箱からの災害のように。この箱にふたをして、底に希望が残るようになるのか?
聖書から見れば、すでに創世記でアダムとエバが罪を犯してからその箱は開いた。「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──」(ローマ5:12)。
ゆえに私たち人間は皆罪人であって、例外はない。心のうちはあらゆる邪悪な罪で満ちている。普段顕在化しないだけで、こうしたウイルス騒動の時露わになる。
神に背いた生活では、「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾く」(創世6:5)。聖書の基盤がない日本では、模範を示すべき国の長が悪の先頭を走る。その罪を覆い隠そうとして必死になりながら。森友・加計学園、桜を見る会、検事長定年延長等々。法を無視し、独裁体制を固めようとしている。
ではその長や取り巻きを批判する私たち庶民はどうかと言えば、やはり同じである。私も同じで、聖書という律法の規定「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」(マタイ7:1)がブレーキになっていなければ、例えばコロナ感染者の軽率といってよい行動をさばいていたかもしれない。スマホのニュースを見ても、今や庶民が公然とさばき合っている。こんな不幸な事はない。
この問題からの救済策が見いだせない今、人々は不安にかられ、ストレスが増加し、パンドラの箱の底にあった希望を抱く事も出来ない。ウイルスの強さで「死」の危険も迫っている。
それでは私たち信徒には希望は無いのか?と問えば確かにある。
私たちの罪を全て十字架で負って死に、三日目によみがえり、今天に戻って世々限りなく生きておられるイエス・キリストの福音への信仰がそうだ。それによって私たちはたとえこのような苦難があっても、いつか天に召され、同じようにイエスと共に永遠の命に入る。
武漢の牧師の訴え(華源協作https://www.chinasource.org/resource-library/chinese-church-voices/wuhan-pastor-pray-with-us/)では、ローマ8:35~39が引用されていた。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。『あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。』 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。
私たちはこの苦難に対して、愛、忍耐と寛容をもって対処したいものだ。