ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

聖書の律法と世の中の法律

「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです」(ヨハネ第一3:4)。

世の中では六法全書と呼ばれる主要な6つの法があるが、キリスト教徒の場合は、まずユダヤ人に伝えられた旧約聖書と、イエスが来られ異邦人も含めた全世界に伝えられている新約聖書の2つだけがある。

世の中に住んでいるので法律も順守するが、何よりこの66巻から成る聖書が日常生活の規範・基準である。

聖書を読めば、誰でもそのメッセージが容易に分かる。旧約は主として罪を示し、新約は主イエス・キリストによる罪の赦しを示す。信徒はどの個所を読んでも、自分が罪人であり、律法に違反し、神の栄光に達しない事が分かるが、キリストを信じる信仰の一点だけで救われる。救われた後も、世に肉体のある限り、その罪深さを負っている。

繰り返すが、キリスト教徒は旧新約の律法に違反する罪人で、罪を犯して来たし、今も犯している事を明確に証する。常に罪を意識し自覚している。

翻って世の法律はどうだろうか?憲法は比較的わかりやすいが、刑法などおよそ普通の市民にすぐ分かるような表記がされていない。直截読んで単純に理解するというものではない。だからユダヤ人の口伝律法を集大成したタルムートなどのように、それまで重ねられて来た判例を基に判断をつける。

そうした細かな知識に長けた法曹界志向の人々が司法試験をパスして、或いは裁判官、或いは検察官、或いは弁護士として、人を裁いたり擁護したりする。形の上では法治国家である。

しかしそれはもう「死語」となった。昨今の汚れに汚れた不祥事に対して、自分はこの法律のこの部分に背いたから有罪だと宣言する人は、とりわけ国の統治者たちには見られなくなった。法はあって無いもの、自分が正しいと思えばそうなる。こんな破廉恥な国に堕してしまった。

罪に対する自覚がまるでないのは、日本という国に聖書の基盤が全くないからである。

聖書にも「良心」という言葉が登場する。例えば「それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです」(テモテ第一4:2)とか、「きよい人たちには、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています」(テトス1:15)である。

信徒はこの「良心」一つとっても、自分もそうではないかと疑う事がある。しかし聖書が根付いていない日本では、為政者・庶民を問わず、この良心が麻痺し、汚れてしまう事がある。コロナ騒動で人を裁き、自分だけが正しいと考える自己中心主義の人は皆そうだ。何より善政の模範を示すべき上の権威が、この体たらくである。

今時代は終わりに近づいていると思う。マタイ24には「戦争や戦争のうわさを聞く」事になり、「国は国に敵対し立ち上がり」「あちこちで飢饉と地震が起こり」「多くの人が互いに裏切り、憎み合い」「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷え」る等々とある。対応するルカ伝には「疫病」も登場する。ヨハネへの手紙第一では、人を惑わす「反キリスト」も現れる。

福音書にそうあるから、信徒はそれに備え、神に頼り、苦難の時を耐え忍ぶ。

しかし世の不信仰な人々は、新型コロナウイルス禍で怖じ惑い、感染弱者を憎み、そうした人々への愛が完全に冷えている。不法がはびこる中ストレスを抱えているから余計そうだ。寛容も忍耐もない。この分断の中、反キリスト的人物が登場し、独裁的な権力を行使する。

けれども聖書の律法はそうした人々をも愛し、その人々の救いの為に祈る事を命じている。私たちはひたすら祈り、来るべき義なるキリストの支配する世を待ち望む。勿論最大の注意を払う事も忘れない。