ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ハーヴァード大学のお粗末な論考

 2012年9月18日のワシントンポストサイトに、「イエスに妻がいたか?」という題の記事がありました。
 そんな事が問題になったのは、4世紀頃と推定される新約聖書に関連した?パピルス断片が見つかったからです。(他のサイトを見ますと、きっかけは個人収集家からキング教授が翻訳を依頼された事となっています)。4×8センチほどの断片は、ローマ時代のエジプトクリスチャンたちが使用していた言語コプト語です。

 見つけたのはハーバード大学神学大学院歴史学教授のカレン・キング氏です。そしてもう一人の協力者であるプリンストン大学のアンマリー・ライアンダイク氏(両者とも女性)と共に、この断片を「イエスの妻の福音」などと命名しました。
 このパピルスの断片に書かれているコプト語の言葉ですが、写真の側には僅か8行、裏に5行だけあるそうです。
 その表の4行目に「イエスは彼らに言った、私の妻は」、5行目に「彼女は私の弟子になれるだろう」と書かれています。裏側にはほとんど情報がありません。この4行目からキング教授らは、イエスが結婚していたかもしれないと述べています。そして5行目との関連から、妻とはマグダラのマリヤと推定しました。
 「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現された。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった」(マルコ16:9)。
 このニュースは米国の相当なサイトで報道されましたが(朝日も報道していました)、いずれも極めて大切な事柄に全く触れていません。
 まず新約聖書イエス・キリストが結婚しておられたなどという記事は一つもありません。イエスの地上でのご生涯は僅か3年半、その間ガリラヤ地方からユダヤエルサレムまで福音を宣べ伝え続け、十字架にかけられました。
 次になぜイエス・キリストは独身でなければならなかったかという本質的な問題です。
 クリスマスでよく知られているように、イエス・キリストユダヤベツレヘムで母マリヤの胎からお生まれになりました。しかしその経緯が大事です。
 「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」(マタイ1:18)。
 そのようにマリヤはヨセフと結婚して子をもうける前に、神の第三位格である聖霊によってみごもったのです。これは超自然的な奇跡で、皆様には分かりにくいでしょう。
 この聖霊は全く罪のない聖い方で、それによってベツレヘムで降誕したキリストは、罪のない方だったのです。(一方最初の人アダムとエバは罪を犯してから、その原罪は現代の私たちにまで脈脈とDNAのように受け継がれています)。
 「私たちの大祭司(=キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(へブル4:15)。
 その罪・汚れの一切ない方が、旧約の汚れなきいけにえの動物のように、十字架にかけられました。私たち全ての罪を身代わりとして負う為でした。罪の結果が死です。
 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした」(ペテロ第一3:18)。
 ですからイエスの結婚は、罪と十字架での身代わりの死、信じる者の救いといった、一連の基本的教理を全く無効にしてしまうものです。
 この断片の発表を行ったキング教授は、ローマのヴァチカンとの繋がりの深い人ですから、信仰があるとしたら、たぶんカトリックでしょう。でもカトリックは今や全く世俗化し、教理も曖昧なところが多く、特にイエス・キリスト像では疑問があります。
 このような出所不明で、聖書全体からの解釈もなしに突然貴重なパピルスだという事で発表するとは、およそハーヴァードやプリンストンといった一流大学のする事ではないでしょう。彼女らの思惑とは別に、こうした大学の名を貶めたといっては過言でしょうか?