ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

宥めの日

「特にこの第七の月の十日は宥めの日であり、あなたがたのために聖なる会合を開く。あなたがたは自らを戒め、食物のささげ物を【主】に献げなければならない。その日のうちは、いかなる仕事もしてはならない。その日が宥めの日であり、あなたがたの神、【主】の前であなたがたのために宥めがなされるからである」(レビ23:27-28)。

イスラエルに関する本を読んでいると本当に複雑で、一つのテーマを取り上げても大きな広がりを見せる。

上のレビ記23:27に「宥めの日」と訳された言葉がある。ヘブル語原文は「ヨーム・ハッ・キップリーム」、少し前までの新改訳は「贖罪の日」と訳していた。一番古い文語訳も「贖罪の日」である。

ヨームは「日」という意味だが、ハという定冠詞の後にくるキップリームは、キップールの複数形で、「贖い」という意味である。この漢字が難しい。漢和辞典ではそのなりたちは「財物を交換して戻すこと」とある。従って贖罪とは財物や過去の功労によって罪を免れることという説明があった。

旧約聖書では贖いは「神と人との間の交わりや調和の関係を回復させる行為」である。その条件として人間の側は、いけにえ(牛や羊など)を携えて来てそれを殺し、祭司によって祭壇にその血をふりかけてもらう事が必須である。その儀式で神によるその人の罪の赦しが成立する。人間は罪深く何度も罪を犯すから、その都度いけにえの動物を携えて来る必要があった。

この言葉は旧約聖書ギリシャ七十人訳になった頃、「宥め」というニュアンスの言葉になった。新約のギリシャ語もその意味合いがある。だから冒頭の赤字聖書個所は、新改訳の訳語として、初めて「宥め」という言葉を当てた。意味は似たようなもので、神は人が携えて来たいけにえの血を見て、人の罪を赦し、その怒りを宥められたという事である。

新約聖書では救い主イエス・キリスト神と人との間の仲介者となり、十字架の血によって神と人との和解をもたらされた。「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所(*十字架の事)に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」(へブル9:12)。

だから今私たち信者はその信仰だけで、主を礼拝する為教会に集うが、特別な儀式は必要ない(イエス・キリストの裂かれた身体、流された血を記念する聖さん式が不定期に行われ,教会加入の為の儀式としてバプテスマがあるだけ)。

しかし現在のイスラエルでは、動物のいけにえは無くなったにせよ、引き続き7月10日の宥めの日(定冠詞を除き、単数形のヨーム・キップールで通用する)を守り、その日は旧約の律法にあるように聖なる会合を開き、「その日のうちは、いかなる仕事もしてはならない」(レビ23:28)という事を遵守している。聖書に直接書かれていないが、「断食」もその日に行う。

それでこの「いかなる仕事もしてはならない」という規定から、1973年エジプトとシリアは、そのすきを突いてイスラエルに対して奇襲攻撃をした。「ヨーム・キップール戦争」の勃発である。この戦争でイスラエルゴラン高原の一部やシナイ半島西部を失った。

でもその後がすごい。すぐさまイスラエル軍は猛反撃し、失地を回復し、さらに一歩踏み出すところまで行った。半沢直樹のドラマではないけれども「倍返し」の勢いだったと想像する。

それこそ「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない」(レビ24:20)という、それ相応の埋め合わせを越えた復讐の論理である。

ここが「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです(マタイ5:9)と言われたイエス・キリストとの大きな違いである。隣人とは同胞イスラエル人の事で後は全て異邦人とし、今もパレスチナに住むアラブ人などを迫害するイスラエルが、人々から嫌悪される理由である。そのイスラエルを支援する米国キリスト教右派の動きも間違っている。ましてトランプの中東和平案など論外である。