ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

嘘と良心

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです」(テモテ第一4:2)。

良心という言葉を聖書で探すと、旧約聖書には載っていない。新約では最新版で29ヶ所ある。では人間創造の時、良心は備わっておらず、後で芽生えたものかというと、そうではない。ヘブル語の言葉は無くても、良心を匂わせる個所は幾つかある。

それで良心の定義はなかなか難しいが、手元の辞典から納得できる個所を拾い、平たく述べてみると、悪い行為を責めさいなむ良心は、最初の人が罪を犯して以来、人間の世界で普遍的に見られるようになり、生得的な道徳の働きが顕在化したものと推測する。

神が制定した倫理的規範に人間は従う道徳的責任がある。信仰を持たない人間でも良心は働き、常に神は応答を待っている。

信徒の場合倫理的規範は聖書であり、そのみことばを通し御霊が心の内を探られる。だからその示しに従って歩む限り、信徒の良心は正しい。でも誘われてみことばを離れ、弱くなってしまう事は多々ある。私も例外ではない。毎日悔い改めて立ち返るのみ。

では未信徒の倫理的規範はどこにあるのか?憲法か刑法か?いや人間の定めた法律は、今や有名無実と化し、不都合が生じて法の条文に向かっても、聖書のみことばのような完璧さがないから、いくらでも自分の都合のよいように曲解し、自分を正しい者とみなして居座り続ける。これは上記聖書箇所にある通り、完全な良心の麻痺である。

上記個所の麻痺するという言葉を調べてみると、ギリシャ語の意味として「熱い鉄で焼き印を押す」という意味がある。烙印を押すとも言うが、かつて奴隷などは皮膚に烙印を押され識別された。その部分は硬くなって感覚が麻痺してしてしまう。

現代の脳神経学者たちは、興味深くこの聖書にも合致した研究をしている。扁桃体という部位の研究がある。そこはおもに感情の制御を司っているそうだ。「嘘」を取り上げてみる。烙印を押される時、飛び上がらんばかりの痛覚を覚えるだろうが、同様に最初の嘘つきの信号が扁桃体に届くと、一気に湧き起こるような感情の反応が出る。

ところがである。一回が二回、二回が四回というように嘘がエスカレートしてゆくと、もはや扁桃体は正常な反応を止めてしまう。そこはいわば硬くなり、嘘などあらゆる罪指摘の信号が届かなくなる。だから鉄面皮、厚顔無恥といった言葉がぴったりの、人格的歪みが出て来る。それはまた自己中心となり、自己の利益だけを求め、他の人々には永続的に嘘をつき続ける行動となって現れる。

その点で私たち信徒は幸いである。なぜなら「偽ることのない神」(テトス1:2)がいつもそばにいて罪悪を示し、悔い改めた信徒たちはみことばから次の事を実践するよう忠告を受けているからだ。「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります」(コロサイ3:9-10)。古い人は限りなく堕落し続け、新しい人は嘘をつく事がお出来にならない神に近づく為、新しくされ続けるのである。