ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

呉智英(くれともふさ)氏の『健全なる精神』を読んで思った事

 呉氏はほぼ私と同じ世代で、全共闘に参加した事もある人です。たぶん御茶ノ水とか日比谷公園などで会った事があるかも知れません。
 現在評論家の肩書きですが、漫画や論語などの中国思想にも詳しい人です。雑誌か何かで断片的に読んだ事はありますが、上記のような1冊の本は初めてです。ウイキペディアを見ますと、聖書も愛読していると書かれていました。
 この本のまえがきを読みますと、「精神はきわめて健全である」「私はこの健全なる精神で言論活動を続けてきた。ごく普通に売られている本を読み、ごく普通の知識を身につけただけで、少しまともに考えればわかることを言ってきた」と自賛しています。確かに全て読み終えて舌鋒の鋭い人だという事が分かります。
 聖書との関連で言うなら、例えば「四国霊場巡り」をしていた殺人未遂の男が逮捕されたのをテレビで見て、「どういうつもりでこんなことをしていたのだろう」と問うています。容易に浮かんで来る答えは「罪の償いをしたいと思っていたのだろう」という事です。でも次です。「霊場を遍路したって被害者には何の償いにもならない。結局は自分の罪の意識を静めたいだけのエゴイズムなのだ」と言っています。たぶん呉氏は聖書の「罪とその贖い」の事を意識していただろうと思います。
 またヨットを用いての過激な体罰で生徒を死なせた為有名になった戸塚宏の事にも触れています。呉氏はその理論を全面的に支持しているわけではありませんが、少年たちに対する生ぬるい教育には批判的です。これなども聖書のヘブル書にある「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる…」(12:6)を踏まえているものと推察します。
 しかしです。呉氏が持っているとする「健全なる精神」が発揮出来なかった箇所が、たった一つですが見つかりました。「職業人としての僧侶」と題した箇所です。そこで葬式に言及しています。「仏教を葬式宗教として蔑む輩がいるが、大きなまちがいである」と氏は言います。そして論語を引用しつつ「批判されるべきは、葬式屋としての職業倫理を欠いていることなのだ」と続けています。これは真っ当な批判でしょう。
 それがキリスト教だとどうなのでしょうか?「愛の宗教と名乗り、信者でもない男女を結婚させて金をとっているではないか」と言っています。そして愛の宗教という場合の愛をアガペーと呼んでいるのは正しいのですが、次に男女の愛を持って来て「エロース」を持ち出しています。その後ですが、「エロースとアガペーの混同の上に、えせ信徒を達成させ、あまつさえ金まで取っている」と厳しく論難しています。
 しかしこの愛という言葉のギリシャ語ですが(聖書のみの)、アガペー対エロースの二項対立は間違いです。聖書にはアガペー以外には、フィラデルフィアという地名で名高い「兄弟愛、友人への愛」(動詞フィレオー)しか出て来ません。聖なる神のみことばですから。
 確かに世俗の教会(*ハワイなどにあるほとんど商売目的の教会)では、少し聖書をかじらせて信徒のように見做して挙式をさせ、儲けている所もありますが、私たちのようなまともな教会はそんな事をさせません。原則はあくまで信徒同士の結婚で、その費用も予算に合わせて行なっています。近頃私が通っている教会であった結婚式では、会員が食べ物を持ち寄り、ケーキ代を含めて500円で賄いました。葬儀も同様です。例外的に未信徒の葬儀を引き受ける事はありますが。
 それゆえ問題は、呉氏がこの特殊な金儲けの為のキリスト教式結婚式の事を、一般に敷衍して述べている事です。「健全なる精神」を持っている呉氏は、ここで結局は日本のほぼ全ての教会に対する間違ったイメージを人々に植え付けてしまいました!私に言わせれば致命的なミスです。
 呉氏は嫌いな評論家ではないので、この一点だけはなはだ残念な事です。
 私たち信徒も「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」(ヤコブ2:10)というみことばがありますから、自戒して専門外の分野の紹介でも決して手を抜かず、「健全なる精神」で臨む必要があります。