ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

賄賂は贈る側も受ける側も心を滅ぼす事になる

「虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす」(伝道7:7)。

聖書的な倫理規定を全く欠く日本では、特に政治の世界では「彼の口のことばは不法と欺き。思慮深くあろうともせず善を行おうともしない。彼は寝床で不法を謀り良くない道に堅く立ち悪を捨てようとしない」(詩36:3-4)という風潮が幅を利かせており、誰もそれを阻止する事は出来ない。

その中にあって、広島選挙区での買収事件の被告河井克行氏の一貫した無罪主張は、聖書的な見地から少し注目していた。公判の結果はどう出るだろうかと思っていた。

聖書では「二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない」(申命17:6)とあるように、複数の証人の一致で事が決まる。それほど証人の証言は重視されている。

今回克行被告から現金を受け取った地方議員ら複数から、それを認める告白が相次ぎ、

克行被告は到底無罪を押し通す事は出来ないと思っていた。でもそれだけ頑なに無罪を主張するには、何かはあるだろうなとも感じていた。

しかし3月24日の新聞報道で、克行被告は一転して買収を認め、同時に議員辞職も表明した事が分かった。

なぜ突如180度向きを変えたのか?選挙を控え、不利になる事を恐れた自民党からの強力な圧力があったのかと一瞬思った。

だが毎日新聞の伝える克行被告の翻意は、神の御前で自分の内面に向き合い素直に罪を告白するようにという、親交のあるカトリック神父の強い勧めがあったからだそうだ。

それで翌日の東京新聞による克行被告のコメントを全文読むと、いまだ罪に対する認知のくだりは見つからないものの、「お金で人の心を『買える』と考えた自らの品性の下劣さに恥じ入るばかり」という表現があって、正直な気持ちであると思った。

僕はここで詩篇49:8「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない」を思い出した。人は幾ら大金を払っても、死んだ人の魂を買い戻す、救い出す、地上に引き戻しもう一度生かす、という事が出来ない。それは自明の事だ。ただ贖い主イエス・キリストだけがお出来になった。同じように神が造り、制御下に置いておられる霊魂を、有限な人が勝手にモノで支配する事など出来ない。そんな高慢な者を神は厳しく罰される。「見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ」(エゼキエル18:4)。

克行被告は「自らの品性の下劣さ」、つまり「自分の罪深さ」を恥じている。これは魂の救いの為の一歩前進であると考える。だって世の中には自分が罪深い事さえ分からず、平気で嘘をついている人がゴマンといるからだ。

果たして僕の考え方は甘いのか、間違っているのか。「あなたが『そのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それをご存じないだろうか。人の行いに応じて、報いをされないだろうか」(箴言24:12)。