ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

トロイ・デービスの処刑と聖書

 2011年9月21日、米国ジョージア州で42歳の黒人死刑囚トロイ・デービスが処刑されました。彼は1989年にジョージア州ハンバーガー店駐車場で、警官マーク・マクフェイル氏を拳銃で撃ち殺したとして逮捕され、22年間拘置されていました。しかし彼はその時から一貫して自分は無罪であると主張し続けて来たと言われています。詳しい事はhttp://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2830185/7813217?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topicsから参照させて頂きました。特にデービス死刑囚はその死刑執行直前までマクフェイル氏の遺族の方に向かって、「自分は無実だ」と訴え、遺族は「きょうこそ正義がなされる日だ」として、その絶命まで見守ったそうです。まことに残念、何と言ってよいのか分かりません。
 キング牧師の意思を継ぐ全米行動ネットワークのアル・シャ−プトン牧師はハフポストサイト(http://www.huffingtonpost.com/rev-al-sharpton/troy-davis-execution_b_976359.html)に寄稿し、「トロイ・デービスの処刑は誤審であり、世界も最後までそれを見守っていた」といった題で、数年前から彼の事に関わって来て、「人は物的証拠もないのにただ目撃者の陳述だけで有罪と宣告されるのかという事に関して、どうしてよいのか困ってしまっていた」と回顧しています。というのは9人の目撃者のうち、7人までが証言を撤回しており、残る2人の証言も疑わしかったからだそうです。それが事実なら実にひどい不法行為になります。最初に参照させてもらったサイトでは、「人種的偏見による冤罪ではないかと言われてきた」とあります。米国ならあり得る事です。それでジミー・カーターデズモンド・ツツローマ法王ベネディクト16世などの有力者たちも、執行反対を表明して来たそうです。
 では聖書の立場はどうなのでしょうか。
 「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」(創世9:6)。
 神は人をご自身のかたちに造り、他の生き物と違って特別に誉れを与えられたわけですから、人殺しは神のイメージを損ない、人への損傷は神への損傷と見做されたのです。だから人殺しは死刑に相当します。
 「あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足」(申命19:21)。これはイスラムのような復讐原理ではなく、人を損傷させた箇所の償いです。それがいのちであれば、いのちをもって償わなければならないという事です。キリスト教は死刑を容認しています。
 しかし神は人間が絶対ではなく誤まり易い事もよくご存知ですから、死刑に対しても慎重な対処を求めました。
 「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない」(申命17:6)。
 それでも人間はウソをついたり、錯覚を起こしたりしますから、この場合の証言には確かな物証も当然含まれていたと解釈されます。
 トロイ・デービスの場合にそれが欠けていたとしたら、死刑執行者たちに対して、究極的には「わたしが報復し、報いをする」(申命32:35)とある如く、神が裁かれます。