ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

忘れられつつある福島、忘れられた40年以上前の大学闘争の時代

 2012年9月27日の論壇時評で、作家の高橋源一郎氏が、雑誌や新書などから注目すべき論文を紹介していました。
 まず思想家の東浩紀氏が週刊誌から受けたインタヴューで、福島の事を忘れない為に、そこを世界の負の文化遺産にすべきだという、「『暴論』じゃない、まとも」な問題提起をした事を受け、こう言っています。
 「日本人は『忘れる』ことの名人だ。戦争や悲惨な公害の災禍も、ぼくたちは喉元を過ぎると、日常の暮らしの中で、いつしか忘れてしまう。このままでは、きっと「フクシマ」も「津波の被害」も忘れてしまうにちがいない」と言っていました。
 そうです、私たちは絶対に忘れてはならないのです。ただ今は原発周辺の放射線量が多いので、文化遺産としての整備は将来の課題です。広島では原爆ドームがちゃんと残されています。
 神に見いだされた民イスラエルも、すぐその恵みと憐れみを忘れてしまいました。ですから神はご自分の事を忘れないように、何度も民に警告されました。
 「あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された「主」を忘れないようにしなさい」(申命6:12)。
 私たちキリスト教徒でも同じです。ですから主なる神を忘れない為に、いつも「聖書」を携えています。
 一方9月28日の新聞で作家の橋本治氏が、「『国民』というより仲間 ワンテーマで横並び結集したその先は」という題で寄稿していました。
 橋本氏は毎週金曜日に行われる反原発デモに言及し、「『みんな』の結集はワンテーマでしか起こらない」と言っています。「原発反対の意思表明をしよう」と思う人たちが来て結集しています。リーダーや指導者がいないこの金曜日のデモ、長続きし全国に波及しています。好ましい運動形態だと考えます。

 ところで橋本氏は、こうした自発的な個々人の結集形態が、今から40年以上前の大学闘争の時代に既にあった事を述べています。その時は「大学当局が己の非を認めない」という事で、問題が絞れたから全国的な動きになれたわけです。しかしこのワンテーマ、既に忘れ去られているか、全く知らない世代が出ているので、経験した者の一人として、特に東大闘争を取り上げてみます。
 まず橋本氏自身が「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というポスターで一躍その名が知られました。この名文句覚えている人は少ないでしょう。そして学生の側から「全共闘議長」という肩書を被せられた山本義隆氏、そして今井澄氏、教官の側から最首悟氏、折原浩氏、宇井純氏、高橋晄正氏、遅れて高木仁三郎氏らも参加していました。
 この東大闘争が広がった契機は以下の通りです。東大医学部のインターン生の組織、青年医師連合が改善を求めて大学当局と交渉した時、上田病院長は逃げ、一緒にいた春美健一・医局長を大学内に軟禁して謝罪文を書かせたところ、当局は関わった青年医師連合の懲戒処分を行いました。ところでその中に粒良邦彦氏の名前がありましたが、彼は当時久留米大学にいた為、当局の明らかな事実誤認でした。久留米大学生も証言し、東大側から高橋晄正氏が出向いて、その無実を立証しました。
 「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」(申命19:15)。
 しかしです。東大医学部教授会は「誤認を認めず,高橋晄正講師らの行動を教授会に対する反逆行為とした」のです。詳しくはhttp://blog.m3.com/yonoseiginotame/20100221/4参照。これには上記東大生・助手・講師らが憤激し、東大闘争は医学部を越えて発展してゆきました。工学部都市工学科の学生がかなり先鋭でした。この一部始終は他大生の私も知って、人のいのちを救うべき教授らの欺瞞性に大いに腹を立て、連帯しつつも自分の大学での同じ体質の追及に向かったのでした。橋本氏の言うワンテーマでした。

 東大闘争は物理的には機動隊によって潰され、なし崩し的に「正常化」に向かわされました。もし持続的な活動が出来たなら(今の国会包囲デモのように秩序立ったもので)、原子力ムラを構成する原子力工学科の教授たちが生まれていたかどうか。
 この40数年前の事件が風化しつつあるという事は、今後福島でも十二分にあり得るのです。
 忘れないという事の大切さの為には、東氏の問題提起は大いに参考になるかも知れません。