ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

帰還困難区域の特定復興拠点自己管理

 「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」(ペテロ第二1:5−7)。
 この個所で自制という言葉は自己管理とも言い換えられる。
 福島県には帰還困難区域がまだまだ多く存在する。福島第一原発より近い順に、大熊町双葉町富岡町の一部、浪江町の大半、飯館村の一部、葛尾村の一部がそうだ。
 その帰還困難区域内部に、特定復興再生拠点区域(復興拠点)を新たに設けて、再び人が住めるようにする。復興庁からそんな計画が出されたのは、ほぼ2年位前の事。
 そして今尚その論議は続いている。
 2018年12月12日の福島民友新聞サイトによると、帰還した住民が個人線量計で被ばく管理することを柱とする放射線防護対策案が内閣から出された。
 次いで12月21日の福島民報サイトでは、その手順として除染とインフラ整備を一体的に進め、放射能が減ってから避難指示解除を実施するという事なのだそうだ。そのうちの放射能低減の基準として「空間線量率で推定された年間積算線量が二〇ミリシーベルト以下」とあった。帰還困難区域は概ね2012年年3月時点で、空間線量率から推定された年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域であった。そのあたりが実態だろうから、除染によって年間20ミリシーベルト以下にするのは大変な仕事になる。
 そもそも法律で決まっている年間積算線量は、1ミリシーベルト以下ではなかったか。
 それに当時盛んに言われていた直線・しきい値なし(=linear no-threshold=LNT)仮説(=放射線の被ばく線量がいかに少なくても、その線量に比例して人体への影響があるという説)は、8年目が近づいた現在全く問題視されず、マスコミなどはほとんど取り上げていない。
 京大原子炉実験所で長らく研究員を勤めていた今中哲二氏は、2013年のPDF文書で「LNTモデルは世界の常識 “100ミリシーベルト以下は影響ない”は世界の非常識」と述べていた(http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/etc/13-10-3Nitiben.pdf)。
 だから年間20ミリーシーベルト以下になったら、特定復興再生拠点区域での避難指示を解除するという案は、大変危険なのだ。危険だから被ばく管理を強化しなければならない。それで帰還した住民に個人線量計を渡して、被ばく管理させる。これって、国はそこまでやらないから、自己管理しなさいという事ではないのか?
 それなら私たちはどうすれば良いか?「知識には自制を…加えなさい」というのを適用すると、あらゆる努力をして、放射能の基本知識を積み重ね、その上で自制する、自己管理するという姿勢が大切ではないか?それは政府の情報の言いなりとは真逆で、放射能の危険性を十分承知して、危険な場所に帰還しないという事ではないか?
 しかるに福島浜通りの中高生たちは、ベラルーシを訪問して、一体何を見て来たのか。福島の地元紙などは、悲惨なチェルノブイリ事故の被災者たちについて、彼らの目を通して発信してはいない。福島復興の掛け声に加担する役目しか担わせていない。私自身が訪問していないので大きな声では言えないが、偽りでなく真実の知識をもっともっと加え、正しく判断して欲しいと思う。無謀な冒険は駄目だ。故郷は捨てられないという気持ちは分かるけれども、今居るところに留まり、ひたすら自制して欲しい。
 

昔の有名な化学者は大抵信仰者だった

 「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」(創世2:1−3)。
 教会に有機化学を専攻し、その関係の会社に勤めている人が最近来られた。熱心に求道している。或るメッセージ(下記ヘブル1:3)の後、要約を書いたノートに「エントロピー」という言葉があった。なるほどなと思った。
 エントロピーは物理学のうちの熱力学で出て来る言葉で、相当難しい。私たち素人に理解出来る言い回しとしては「乱雑さの度合い」だろうか。だからエントロピー増大という場合、乱雑さが増す事を指す。全ての事象は自然のまま放置すると、乱雑さ(エントロピー)が増し、その逆は生じない。エネルギー(=仕事をする力)という言葉を使うなら、用いる事の出来るエネルギー量は、常に減少し続ける。もっと言えば宇宙という閉じた空間では、あらゆる事象を維持する為利用出来るエネルギーは、常に減少してゆく。摩擦による消耗を考えると分かる。また太陽を考えると、膨大なエネルギーを出すが、その大部分が利用出来ない熱エネルギーとなって、宇宙空間に散って行くという事でも分かる。これが熱力学の第二法則である。
 一方このエネルギーの形が変化しても、宇宙という閉じた空間でのエネルギーの総量は、常に一定に保たれる。物質は形が変わっても、その全質量は変わらない。この質量+エネルギー保存の法則を熱力学の第一法則と言う。それは19世紀に実験測定で確立したと言われる。
 それに貢献したのがジェイムス・ジュールである。「ジュールのエネルギー保存則は、熱力学第一法則の基礎を形作った。この法則はエネルギーが創られる事もなく、壊される事もなく、一つの形から別の形へと変わり得る事を述べている」(https://creation.com/james-joule)。
 このエネルギー保存則は聖書で次のように書かれている。
 ○ヘブル1:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
 ○コロサイ1:17「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」。
 また熱力学第二法則エントロピー増大則も、聖書で次のように書かれている。
 ○詩102:26「これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。」
 卓越した実験科学者ジュールは、ドルトンの法則で知られるジョン・ドルトンから教えを受けた。この師と弟子は敬虔なクリスチャンだった。ジュールの業績を目に留めたのが、ウイリアム・トムソン(ケルビン卿として知られる)であった。彼もクリスチャンだった。さらにはマイケル・ファラディも、ジョージ・ストークスもクリスチャンだった。クラーク・マックスウエルもそう。物理学や化学の大御所は皆クリスチャンだった事になる。
 ジュールは忍耐と謙遜で知られる誠実な信徒だった。神のみこころを追求し、それに従った。創造主としての神を毅然として認めていた。
 それでは神を信じない世の研究者たちはどうか。基本的に自己の誉れを求める。ノーベル賞本庶佑氏はそれプラス免疫学で、社会に貢献しがん患者に希望を持たせた。
 でも国立大学では競争的資金に汲々として、ますます自己中心、ジュールの時代のように、地道で神のみこころを求め、それに沿った研究で、輝かしい業績をあげた事など及びもつかない。
 それにしても、聖書に見られる神の全知全能は、測り知れないものがある。「エントロピー」とノートに記した人の神中心を切に求める。
 
 

山形県のキノコから放射能上限超えたもの見つかる

 「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです」(ペテロ第一1:4)。
 2018年12月12日の東京新聞サイトに、「規制外の山からセシウム 山形で採取、出荷のキノコ」という見出しの記事があった。
 福島第一原発事故による放射能汚染については、山形県からの情報はあまりなかった。山形市から東南15キロほどの所に、スキーで有名な蔵王山がある。福島第一原発から100キロ以上離れている。その蔵王地区で採れ店に並んだ野生キノコの一種サクラシメジから、キログラム当たり基準値100ベクレルを超えるセシウム137が検出されたというのだ。別の調査でその付近にあった別の野生キノコを調べて見ると、キログラム当たり147ベクレルあったそうだ。さらに別の情報では300ベクレル検出されたものもあった。
 それを受けて山形市では、基準値を超えた野生キノコ全ての出荷自粛を要請した。
 元々野生キノコが放射性セシウムを土壌から吸収蓄積するという情報はあった。2018年年5月段階で、いわき市でも野生キノコは出荷が制限されている。
 再度山形県の3・11以後の放射能の流れを考えてみる。福島県で最も深刻だった飯館ルートでは、3月15日風向きが変わって、山形方面に向わず、福島、郡山、日光を通って群馬県に達した。ちなみに私が浴びたのは3月21日の柏ルートである。
 それらに対して3月20日の一関ルートというのがあったそうだ。これは知らなかった。それが山形市を北上して、岩手県の一関にまで達したようだ。この時山形市蔵王の森林は広範囲に汚染されたと推測される。
 結局上記聖句を適用すると、朽ちることも、汚れることも、消えてゆくこともある資産を、私たちは福島原発事故から受け継いでしまったのだ。幾ら当局が除染したから大丈夫だと強弁しても、事実は残る。
 キノコの栄養価は高い。風邪を引いた時、干しシイタケを煎じて飲み、布団に包まっていると、熱が下がる。
 だからもう汚染されてしまったものは、内部被ばくも辞さない、自家消費志向の人の自己責任で食べるという事になる。半減期30年のうちの8年経過だけだから、将来被ばくで起こり得る病気が怖い人は、一切食べないほうが良いし、当局も隠さず正直に実情を公表して欲しい。
 
 

精神科子ども外来の増加

 「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」(マルコ10:13−16)。
 2018年12月6日の福島民友サイトでは、「『精神科子ども外来』患者増加対応急ぐ県立矢吹病院で過去最多」という見出しの記事があった。
 矢吹町というのは初めて、JR新幹線白河駅からが近いようで、私の勿来からは、ずっと西の方角にある。
 東日本大震災では、内陸部としては町の30パーセントが全半壊、ウイキでは「最大の損壊率」とあった。
 その震災から5ヵ月後に開設された外来では、患者の数は増え続ける一方だという。円グラフで子ども外来に来た子どもたちの精神障害を辿ってみると、注意欠陥多動性障害ADHD)が最多、不安神経症、広汎性発達障害の順になる。発症する子どもの年齢は、7〜12歳が半数を占めるという。大震災の時0歳〜5歳位である。
 地震津波による大被害を目の当たりにしていたと想像する。上記の疾病の癒しには相当な時間がかかる。
 私は阪神大震災東日本大震災の2つを経験した。子どもの心に関する限り、決定的な違いは地震津波による被害より、原発事故による放射能の大量放出だと考える。これは目に見えないから極めて厄介である。しかもそれによる外部被ばく・内部被ばくの発症の有無は、セシウム137の半減期が約30年である以上、相当長期にわたる監視を要する。
 被災地で被ばくした親は、生涯子どもの健康に注意していなければならない。そして皆で支えあわなければならない。寄り添う医師もカウンセラーも、多く必要だ。
 しかしである。福島県では五輪を控え、政府も県も、はなはだ都合の悪いこの放射能問題を「封印」しておかなければならなくなった。復興の大合唱と共に。そして放射能に関わる良心的な研究者・医者は、一人減り二人減り、皆が沈黙させられている。事実の公表も出来なくなった。
 いろいろ要因はあるにしても、この封印の影響は広範囲に及び、深刻な影響を与え続けている。もはや被災した親は、その事実をおおっぴらにする事が出来ない。もしそうすれば子どもは陰惨ないじめに遭い、不登校となって閉じこもる。親の心の不安定は子どもにも移る。子どもが精神的なダメージを受けると、他人の子どもにも及ぶ。
 救いようのない事態が続く。聖書によれば、親も善悪の判断が出来る子も、同じ罪人である。これが解決出来ない限り、心の病はただ広がるだけだ。

 その点私が通う教会の子どもたちは、牧師をはじめ、信徒たちからの手厚い擁護を受けている。普段の子ども集会、クリスマス特別集会を見ても、子どもたちが元気で飛び回っているのが分かる。実に伸び伸びとして明るい。
 教会敷地の遊びだけではない。会堂内でもしっかり心の罪の問題が教えられている。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」(伝道12:1)。この計り知れない意義は、幾ら強調してもし過ぎる事はない。子どもが健全なら、他の子どもを誘って教会に来る。
 冒頭の聖句にあるように、イエスはこよなく子どもを愛し抱擁し、祝福された。この模範に私も従いたいと切に思う。

原発輸出暗礁は朗報

 「私の敵は退くとき、つまずき、あなたの前で、ついえ去ります。あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです」(詩9:3−4)。
 2018年5月、東芝は米国テキサス州で計画していた原発建設を中止し、撤退する事を表明した。原発が海外でもいかに巨額の損失をもたらすか、まざまざと見せつけられた感じだった。
 さらに三菱重工業もトルコでの原発建設が、当初の計画通りに行かなくなり、撤退するかどうか注目していたが、この12月遂に計画を断念し、撤退に向かうとあった。
 もっとある。東京新聞日立製作所も12月16日、英国での原発新設計画を凍結する、という事を伝えていた。
 かつては白物家電の代表企業と言われたこれらの大会社が、「揃い踏み」して原発輸出から手を引いた。
 原発はクリーンでコストも安いなんて大々的に宣伝しておきながら、いざ東電福島第一原発事故が生じると、廃炉を含めたその損失金額が莫大になる事も明らかになった。さらに膨大な数の人々に避難を余儀なくさせた責任の追求が、正規の裁判と共に、裁判によらない紛争解決手続き(=ADR)を通しても、次から次へとなされ、その補償額が天文学的になる事も分かった。かつては権威のあった会社が、全く地に落ちてしまったのである。
 だがそれ以上に東電の失墜を利用し、国内では儲からないが、海外に輸出すればペイするとソロバン勘定をして、いわば「漁夫の利」を得ようとした、上記大手の会社も信頼を大いに損ねた。
 原発の配管が将来の事故の危険性を孕んでいるのに、他国民の事など知ったこっちゃないと言う企業倫理観ゼロのこうした会社に、私たちは異議を唱え、或る人は行動し、或る人は祈り、義の審判者である神に廃炉を願い求めて来た。
 私はこうした海外への原発の輸出の撤退が、神のみこころに適い、一歩動かれたと信じる。同時にそれはあくまで原発を捨てようとしない安倍政権に対する、強力な鉄槌になったと信じる。
 その意味で、近頃暗いニュースが多い中、これらは朗報である。一緒に祝おうではないか。 

 

福島で盛んなイルミネーションだが

 「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」(マタイ4:16)
 都会にいた時のイルミネーションなんて、暮れに東京に行った時、駅の八重洲南口から有楽町方面に向かいながら歩いていて、あっきれいだなと思ったくらいで、およそ関心はなかった。
 それから3・11の東日本大震災が生じ、松戸あたりでもエレベーターの停止とか、輪番停電の実施などがあり、消費電力の節制には随分過敏になっていた。
 そして7年9ヶ月が経過し、ここ福島でも至る所でイルミネーションが復活し、各地で工夫を凝らして派手な飾りつけがされている。
 私は教会のチャペルがある南相馬市小高区に、だいたい月1回教会の方々と共に行き礼拝している。ここの名物と言えば、町ぐるみで行うイルミネーション事業だろう。11月から始まった。

 画像は昨年12月帰りがけでも見たと思うが、チャペルからも一番近くにある。http://odaka-kanko.jp/c-event/index05.htmlで閲覧出来る。今年は帰りのルートで寄らなかったので見えなかった。
 またいわき市泉の本拠「翼の教会」でも、その飾りつけが始まった。すごくきれいなので、夜そこに向うと、直ぐ分かるし、何よりもこの光、救い主イエス・キリストの降誕を象徴するものとして目立つ。大震災時福島第一原発から一番近い大熊に立派な会堂があったし今もあるのだが、そこは帰還困難区域で、立ち入り禁止となっている。古くからの教会員はさぞ無念だろうと推測する。
 その為転々と避難生活を送り、この泉町で不死鳥のごとく甦ったのである。

 白内障が進み、車の運転は夜間控えているが、夕方になると見え始める。まるで冒頭の聖句を「地でいく」という印象である。
 北海道で大規模なブラックアウトが生じたのは記憶に新しい、そこに住む人々は本当に光を恋い焦がれた事だろう。
 ではイルミネーションはと言うと、それに使われているLEDの電気代は馬鹿にならない。
 きれいなのは間違いないが、あの大震災を想う時、どうも気にかかる。およそ8年前と同様、関心が一向に深まらないのだ。自分はけちで異常なのか?それでもいい。聖書にちりばめられている真の光を毎日眺められるのだから。
 

 

原発の配管こそ最大の問題

 「御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方」(詩篇33:14,15)。
 図書館から『原発をつくった私が、原発に反対する理由』(菊池洋一著)を借りて読んだ。
 以前ブログで言及した事のある蓮池透氏は、東電で32年間福島第一原発の保守管理者として働き、原発に精通する人だったが、上記本の著者菊池洋一氏もまた、原発の企画工程管理専門家として、原発の仕組みに対しては非常に詳しい。
 菊池氏は東電社員ではない。米国ゼネラル・エレクトリック社に所属し、福島第一原発6号機の建設に関わった。
 だから菊池氏が原発に反対する理由は良く分かった。第一原発事故の原因については、様々な事が言われているが、菊池氏がこの本で繰り返し述べているのは「配管」の事だ。そしてそれは「いかに原子炉や格納容器が頑丈につくってあったとしても、見過ごされがちな『配管』こそが危険だと考えていました」という言葉に凝縮されている。
 私たち素人は新聞などでよく見かける、極めて単純化された図に惑わされていないだろうか。実際には原子炉内部は、配管が非常に複雑に絡み合った「お化け」(=怪物、形や大きさが異常なもの)である。私が所属する教会は福島第一原発の近くにあり、今尚帰還困難区域に指定されているが、その会員には元東電の技術者が何人かいる。その人たちに伺っても、その事実を裏付けている。以下は私の要約だが間違っていたら指摘して欲しい。
 福島原発の1−5号機はGE社のMARK1沸騰水型で、圧力容器は著者によると、底は「ザルのように穴だらけ」になっている。下からぎっしり配管群を差し込む為だ。容器外にある配管は床に固定する事が出来ない。ほとんどが宙吊りになっている。それらはハンガーで吊られている。そしてそのハンガーそのものを支持する縦長の棒がある。
 なぜそんな不安定な構造になるのか?運転中の原子炉そのものが巨大な熱で膨張し、縦に伸びるからだ。だから床に固定すると、筒状のノズルなどの破断が起こる。冷却水が無くなり、炉心溶融になる。
 菊池氏が一番心配したのは、その支持棒(ロッド)の溶接である。それは溶接工が手で行う。極めて限られた場所において、その溶接を上向きで行わなければならない。下向きの半分くらいしか強度が出ないそうだ。
 昔職業訓練学校で板金を勉強していた頃、その溶接を見た事がある。溶接科の生徒は実に芸術的な上向き溶接をやっていて、凄いと思った。しかしそれは十分なスペースと余裕があっての事、原発のような複雑な配管をぬって、上向きの溶接をするのは至難の業である。溶接中に火の粉が降って来ても、避ける事が出来ない。
 ロッドだけではない。無数の溶接個所があり、また溶接中に出来たピンホールを、全て調べるわけにもゆかない。ちなみに私は厚板の溶接検定で、このピンホールの為落ちた経験がある。
 当然脆弱な個所が出て来るし、度重なる地震で配管同士がぶつかって損傷する事もある。
 かくて3・11以前から、配管の亀裂は無数にと言ってよいほど生じていた。菊池氏のような達人は、配管の図面から、どこにそれが生じるか、ほとんど見当をつけていた。
 3・11大地震の時、建屋内部にいた作業員たちは、配管同士がぶつかる恐ろしい音を聴いていたという。
 それゆえ菊池氏は「大量の配管の亀裂、破損部分から、水が漏れ続けていたことは間違いありません。津波が来る前から、冷却機能は失なわれていたのです」と結論付けている。
 炉心溶融津波が原因ではなかった。元東電首脳の刑事裁判で、最大15.7メートルの津波がどうのこうの争う以前の問題である。こうした配管損傷による炉心溶融という視点を、菊池氏から初めて教えてもらった。氏は生涯をかけて反原発の行脚を続けている。