ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

福島県中通りにある白河小峰城跡を見て来た

「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら」(詩18:2)

 2019年3月1日白河市東北本線白河駅直ぐ北側にある小峰城跡を視察して来た。

 福島県中通りとしては、昔母と行った事のある棚倉、そして物件を探していた福島市二本松市郡山市に次いで、5番目の訪問となる。車で行ったが、やはり中通りともなると、遠く感じる。国道289号をひたすら西に走り、近づいてからは友人からもらったナビが威力を発揮し、気がついたら小峰城の駐車場に到着していた。

 実はここに至るまで、前日晩からの睡眠検査で緊張してよく眠れなかったので、寝不足のまま出たから、途中でお腹がおかしくなり、吐き気に襲われていた。良く我慢して着いたと思った。だから白河名物のラーメンを食べるどころでなく、写真を撮ってすぐ帰途についたのである。

 3・11で石垣の一部が壊れ、その年の12月から修復作業が始まったというから、7年余をかけて完成に近づいた事になる。築城当時の工法で作業を進めて来たというから、その努力には敬意を表したい。1340年に築城、江戸時代の1629年に石垣を多く使用して改築、約4年かけて完成させたというが、戊辰戦争に備えてのかなり堅固な城だったようだ。南の谷津田川、北の阿武隈川に囲まれた砦で、北側に半周する堀が見えた。

f:id:hatehei666:20190301112245j:plain

 戊辰戦争で消失した三重の櫓(やぐら)は1991年に復元された。壮大な建物ではないが、非常に美しい。

 石垣修復工事完了は今月末になりそう。工事をやっている人を2人見かけた。地味な仕事に拍手したい。

f:id:hatehei666:20190301113330j:plain

 3重櫓に至るまで坂を上ってゆき、最初に出くわすのが、前御門という立派な門。下写真の右手。

f:id:hatehei666:20190301114231j:plain

 太い木の柱と扉が印象的だった。

 この門に至る石段から撮った石垣はもう芸術的。

f:id:hatehei666:20190301114441j:plain

 櫓から北西方向を見下ろすと、以下のような感じ。堀の一部が見える。もっと遠くの高架橋は東北自動車道か。

f:id:hatehei666:20190301113913j:plain

 もう少しゆっくり見たかったが、お腹をこわしそうで止め、鮫川村、古殿町、田人町を通る71号線で、植田から帰宅した。

 今回の旅で戊辰戦争の激戦地白川を見て来る事が出来、大変嬉しかった。また刻一刻変化している浜通りの旅を続けよう。

 

アイヌと沖縄の歴史

「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった」(創世10:5)

 昔北海道は蝦夷の地と呼ばれていた。そこには先住民族としてアイヌ人が住んでいた。そして独自の言語と文化を持っていた。

 江戸時代に和人である松前藩も、この蝦夷の地の一角を占めていた。

 アイヌ民族が最初迫害に遭ったのは、この松前藩の横暴な政治によるもので、1669年のシャクシャイン戦争アイヌは自立を計ったが鎮圧された。しかしめげる事なく戦いは続き、1789年クナシリ・メナシの蜂起が起こった。でも惨憺たる敗北で、この時点からアイヌ民族は、絶滅に近い打撃を受けた。

 明治時代に至ると、1869年国家はこの蝦夷地を北海道と変えた。そしてアイヌ人はいっそう貧困状態に陥った。見かねた政府は「北海道旧土人保護法」を制定したが、彼らの尊厳は保たれず、帝国臣民に組み込まれた。

 戦後の1970年代から、民族の権利を求める運動が盛んになったようで、「北海道旧土人保護法」から「アイヌ新法」への制定を求めるようになった。

 そして2019年2月、この新法は国会に提出されている。

 これは日本列島の北の端の問題だったが、南の端の沖縄はどうか?ここには昔琉球王国というものが存在した。

 そこも薩摩藩の支配に組み込まれてしまった。

 そして明治政府によって琉球王国は滅亡させられ、北海道の事例と同じように、1879年沖縄県という名称に勝手に変えられた。

 1945年日本の敗戦により、沖縄には米軍基地が多く作られ、現在普天間から辺野古への基地移転問題で、沖縄は塗炭の苦しみに遭っている。

 アイヌと沖縄の歴史を探ると、以上のような共通点が見つかる。

 それは例えば少し古い研究だが、2012年11月のネイチャー誌に載った論文でも示される。 総合研究大学院大学東京大学による成果である。

 ヒトの染色体および遺伝子から成る全遺伝情報ゲノムには、およそ30億の塩基対がある。A (アデニン)、G (グアニン)、T (チミン)、C (シトシン)の 4 種類の塩基 がDNAの中に存在するが、その塩基の一つだけ違っても、多様性が生まれる。それを一塩基多型(SNP=スニップ)と呼ぶ。SNPを活用して調べると、以下の事が分かった。日本列島の北端から南端までおよそ4千キロにわたるが、そこは3つの人間集団、つまりアイヌ人、本土の日本人、琉球人の母国となっており、縄文時代の或る時期に、同時に枝分かれした事、そして先住の縄文人と、移住して来た弥生人の混血が、それ以後の或る時期に生じたと思われる事、地理的に遠く離れていても、アイヌ人と琉球人の遺伝的類似性が、SNPデータから見て最も高い事(両者共縄文人の血を引いている事は、他の人類学的データなどからも裏付けられる)、両者の中間に属する本土の日本人は、縄文・弥生時代人の混血の結果形成された事。

 改めて本土日本人がアイヌ琉球の人々に対して採って来た、政策の罪深い高慢さがよく分かった。特に今沖縄では「琉球新法」又は「琉球国としての独立」に向けて、産みの苦しみをしているのではないか。アイヌとの連帯も必要だろう。

 

糖尿病患者の骨格筋減少の原因

「その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる」(ヨブ33:21)

 昨年の夏は猛暑だった。そして12月の末近くなっていきなり酷寒になった。こうした気温の大きな変化で、教会に通う人々の多くが病に倒れた。

 私も8月、ちょうど糖尿病専門のクリニックに変わった頃から、体調を大きく崩した。糖尿病の進行状態の目安となるHbA1cが、正常値を5・8以下とすると、8から下がらなくなっていた。医者は高度な専門医で、高カリウム血症にもなっている事を、初めて指摘してくれた。

 厳しい食事制限の中、あるミニコミ誌から知ったのは、糖尿病が進むと、筋肉が減るという現象である。サルクス=肉・筋肉と、ぺニア=不足とが合わさった、サルコペニアという医学用語である。*サルコではない。新約聖書にもよく出て来るが、発音はサルクスである。

 歩行速度、握力、骨格筋量指数などを組み合わせて診断されるが、ネットの情報では「両手の親指と人差し指で輪っかを作り、ふくらはぎの最も太い部分を囲むこと」で、おおよその見当がつくそうだ。その隙間が大きいほどサルコペニアの可能性が高い。実際やってみて、自分の場合スカスカなのだ。

 これで腑に落ちた。体調が悪化したのは、体がふらつき、文字どおり地に足がつかない状態になったからだ。出来るだけ背筋を伸ばし、真っ直ぐ歩こうとするが、そうならなくなったのだ。

 胃がなく、腸からの吸収力が悪いので、検査では貧栄養に近く、体重が増えない。だから栄養士は特に豚肉の、それも油のあるものを多く摂取するよう勧めてくれている。

 そうこうしているうち、19年2月22日の新聞で、神戸大学の研究チームが「糖尿病患者の筋肉減解明」をしたという記事が出た。

 私はほぼ常時300近い高血糖の状態だが、マウスでの実験では、それが引き金になって、筋肉が減少するという。つまり高血糖そのものが、骨格筋の減少を引き起こすという、全く想定外の仕組みをチームは解明したそうだ。WWP1とKLF15という2つのタンパクの働きを通し、そうなるという。概要は神戸大学の研究から分かる。(http://www.kobe-u.ac.jp/research_at_kobe/NEWS/news/2019_02_22_01.html)詳細は(https://insight.jci.org/articles/view/124952

  前者は日本語による概要、後者は英語の論文。論文は難解なので、神戸大学の解説図が分かりやすい。

 私の理解では、血糖値が上昇すると、WWP1の量が少なくなり、その結果、KLF15のユビキチン(=76個のアミノ酸からなるたんぱく質の一種)量が減り、KLF15の分解が抑制され細胞内でその量が増える為、筋肉が減少するという仕組みらしい。この解明で将来筋肉の減少を阻止する薬が開発されそうである。

 とにかく酔っ払いのような動きでポスティングをやっているから、ちょっとした段差で倒れそうになる。骨折すれば廃用症候群となる。栄養と運動が欠かせないが、まず高血糖を押さえる薬の限界が見えて来た。インスリンを使うのはもう間もなくだろう。非常に残念である。

在日韓国・朝鮮人

「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって【主】の歌を歌えようか」(詩篇137:1~4)

 図書館から福岡安則著『在日韓国・朝鮮人』という本を借りて読んだ。前にも述べた事があるが、福岡氏は東大全共闘の一員だった。だから差別問題にしても、鋭い批評眼を持っている。1993年刊行の本だが、少しも古くはない。

 この本の後半は若い世代の彼らのアイデンティティについて、丹念に聞き取り調査した結果を述べている。

 私は在日韓国・朝鮮人という言い方に差別が潜んでいるのは分かっていたが、本の冒頭にかかげられた、日本人から非日本人までの8つの類型を考えた時、自分の無知を知らされ、大いに反省させられた。以下に挙げる。

1「日本民族の血」を引き、「日本文化」を内面化し、日本国籍をもっている人たち、いわゆる“純粋な日本人”

2「日本民族の血」を引き、「日本文化」を内面化しているが、外国籍の人たち、いわゆる「日系一世」等々

3「日本民族の血」を引き、日本国籍ももっているが、異文化を内面化している人たち、海外帰国子女など海外成長日本人

4「日本文化」を内面化し、日本国籍ももっているが、異民族の血を引いている人たち、いわゆる「帰化者」-日本で生まれ、民族教育を受けることなく成長した在日韓国・朝鮮人で、「帰化」により日本国籍を取得した人たち

*彼らは結婚という場面で日本人ではない者として扱われ。結婚を忌避されてしまう。

5「日本民族の血」を引いているが、異文化を内面化し、かつ、外国籍の人たち、いわゆる「日系三世」あるいは「中国残留孤児」

6「日本文化」は内面化しているが、異民族の血を引き、かつ、外国籍の人たち、つまり民族教育を受けていない「在日韓国・朝鮮人」の若者たち

日本国籍はもっているが、異民族の血を引き、かつ、独自の文化をもっている人たち、いわゆる「アイヌ民族

8異民族の血を引き、異文化を内面化し、かつ、外国籍の人たち、つまり“純粋な非日本人”としての「外国人」、いわゆる外国人-アジア諸国を主体とした「外国人労働者」たち

 福岡氏は「日本人」「非日本人」という両極の間には、切れ目のはっきりしない連続体が構成されると言う。その例が「琉球民族」、現在の沖縄県人である。彼らの話す言語「琉球語」は、“純粋な日本人”には理解出来ないからだ。

 かくて日本社会は「単一民族社会」ではなく、「同質的社会」でもなかった事が良く分かる。

 改めて在日韓国・朝鮮人の歴史を紐解いた時、私自身が見逃していた事実だが、朝鮮に対する日本の侵略は1910年の韓国併合からではく、1876年の「江華島条約」から始まったのである。以後日本に来た朝鮮人労働者の数は増加し、戦時下の1939年以降は強制的に連行・徴用され、過酷な労働に従事させられた。朝鮮人従軍慰安婦もその時生まれた。戦後生まれの私も、それは父親や戦前の新聞を通して知っていた。

 1945年日本の敗戦と共に、多くの朝鮮人たちが帰国したが、およそ5~60万人が日本に残ったという。

 戦後の日本政府も、彼らに対して理不尽な措置をとり続けて来た。ここで福岡氏は4つの基本的な政策モデルを提示している。

①人権の論理に基づく政策

②同化の論理に基づく政策

排除の論理に基づく政策

④抑圧の論理に基づく政策

 人権の論理とは、強制連行、従軍慰安婦などの問題に関する資料の保存、それに基づく心からの謝罪と補償参政権国籍選択の自由を認める事等々である。しかし事実はと言えば、日本政府はそれらを全て採択しなかった。現状を見ればそれが良く分かる。元徴用工への賠償命令問題などがそれだ。高慢で居丈高な政府は、戦後心からの謝罪をして来ただろうか?イエス「また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(マルコ12:33)と言われたが、隣人朝鮮人をまず心から愛し、彼らの益の為に心を尽くし、力を尽くすのは当然の事である。それがあってこそ、トラブル解決も円滑に進められるのだ。

 同化の論理とは、在日韓国朝鮮人に独自の民族意識を持たれてはまずいので、彼らが日本に留まる限りは、「帰化」により「日本人化」してもらうという事である。それにより本名の民族名でなく、日本名を通名として使ってもらう事だ。当然彼らの反発を招いている。

 排除の論理とは、韓国・朝鮮人は全て母国に帰ってもらうという事である。民族学校を保証し、そこで祖国に帰ろうという機運を作ってもらう事だが、それもうまく機能していない。 

 抑圧の論理とは、在日韓国・朝鮮人の存在は厄介だから、その人権を無視し続けるという事である。政府は彼らに対して基本的人権を認めないという立場を一貫して採っており、彼らの側の運動や、国際世論等々により、やっと「指紋押捺」が廃止されたなどの経緯がある。

 福岡氏による若い世代の人々からの聞き取り、特に在日三世などに関しては、その多様な反応について、詳しく語る紙数が尽きた。特に在日韓国・朝鮮人三世のアイデンティティとして、本名を公にするとか、隠すといった多様な姿勢が、この本から良く汲み取れる。自己中心的“純粋な日本人”の度し難い差別には、一貫して抗議の姿勢を貫きたい。クリスチャン人口の30パーセントを占める韓国の人々のほうが、心は遥かに豊かである。日本による弾圧が、かえって彼らの人口を増やした。1パーセント以下の日本については、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示3:17)というみことばが適用されるだろう。

 

 

 

高レベル放射性廃棄物の地層処分は安全か

「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む」(イザヤ32:17-18)

 原子力発電環境整備機構の伊藤真一氏は言った。高レベルの放射性廃棄物の処分に関して、「地下三百メートルよりも深い岩盤に埋設する『地層処分』の安全性を伝えている」と。

 ウランの核分裂反応の発見が1938年頃、それが原子力爆弾という形で軍事目的に使用され、戦後その平和利用という事で、原子力発電所が初めて作られたのは1950年頃、まだ100年も経っていない。

 実験で再現出来るものではないので、半減期およそ46億年と言われるウラン-238の事も含め、誰もその事実を確かめられない。そうした机上だけの理論による非科学的計算で、地層処分が安全だとどうして言えるのか。伊藤氏は国民の理解が深まっていないので、これからも全国で説明会を続けるそうだ。

 一方理解する人もいたというのでは、開いた口がふさがらない。でもそれは科学ではなく「信仰」の問題だから、伊藤教信者が出てもおかしくはない。聖書の時代、祭司長・長老たちといった、権威ある人々に盲従した群衆がいた。彼らは強盗よりも、イエス・キリストを十字架にかける事をそそのかされ応じた。

 日本列島に住む私たち庶民が、見て分かる現象と言えば、地震や火山活動等である。それを理論化してみせたのが地球物理学者らで、その現象に関わる仮説を、プレートテクトニクス理論と言う。ネットの知恵蔵によると「地球表層部で起こる地震、火山噴火、造山運動など、地学現象の原因やメカニズムを、地球表面を覆うプレートの水平運動で説明する考え…」と定義されている。

 私たちに馴染みの深いGPS(=全地球測位システム)を手掛けるのは米国防総省で、打ち上げた複数の人工衛星の電波を利用して、現在位置を正確に割り出すシステムである。車を利用している人は、カーナビが限りなく現実に近い事を知っている。それが地震、火山活動に適用され、地殻変動の観測にも使われている。それもプレートテクトニクス仮説の真実性を裏付けている。もう仮説の域を抜けて事実とみなされている。

 ジョン・バウムガードナーという地質学者がいる。彼は2011年3月11日の東日本大震災におけるプレートの動きを分析した(https://creation.com/plate-tectonics-today)。下図はGPSに基づく分析で、私訳と一部作図

f:id:hatehei666:20190224203711j:plain

  この図は451の離れたGPS局で記録された変化で、東北地震(M9)に対応する本州の陸地表面の移動を示す。これだけ広範囲に動いている。

 1991~1996年におけるマグニチュード4・5以上の世界地震分布図を見ると、下図中央左の日本列島は密集しているのが分かる。

f:id:hatehei666:20111018093413j:plain

 それだけ日本では地殻変動が激しい。そんな日本で地下300メートルより深い岩盤に、高レベル放射能廃棄物を埋設するから安全と言うのは無謀ではないか?岩盤は動くし、3・11のちょうど1ヶ月後、いわき市で起きたM7の地震は、震源の深さ6,000メートル、珍しい正断層面が露出したのである。想像をたくましくすれば、500メートルであろうと、そこに埋設された放射性廃棄物は、亀裂を辿って上昇し、地上の広範囲を汚す事が在り得ると思う。

 とにかくバウムガードナー氏は「プレートが現在も動いているという事実を、GPSは証明している」と、きっぱり述べている。 

 さばきは神に委ねるが、伊藤教祖の安全誘導は断固断るべきだ。2月27日の新聞記事を見ても、福島県沖で今後30年以内に、M7級地震の起こる確率は「50パーセント」と引き上げている。この意義は絶対無視出来ない。福島第一原発廃炉作業は、30年を超えて続く。使用済み核燃料の取り出し中に、地震が生じてそれが落下しただけでも、相当な惨事となる事が予想される。

 

郡山の由来

「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた」(創世4:17)

 19年2月5日の福島民報では、発酵の研究で有名な、東京農大名誉教授の小泉武夫氏が、郡山市の事を書いていた。

 郡山市には物件を求めて何回か行った事がある。2015年夏は、そこのアパートから、二本松市の山林除染に関わった。いずれも良い思い出がなかったので、この地名の由来には全く関心がなかった。

 しかし上記小泉氏の文章を読んで、少し考えを変えた。

 701年政府は大宝律令という法典の中で、全国を60余りの国に分け、その中に郡と里(後に郷)を置く事を決めた。そして国には国府、郡には郡衙という役所を置いた。下の写真は多賀城市国府址。

f:id:hatehei666:20161103144107j:plain

 福島県は当時陸奥国に属し、郡山は郡衙に属し安積郡と呼ばれていたそうだ。陸奥国府宮城県多賀城市に置かれた。安積郡衙については、地図を見ると郡山駅西側の直ぐ近く、清水台という地名の所に、安積国造神社というのがあって、その近くにあったと言われている。さらにその直ぐ西にホテルハマツがあって、県などの会議がある時は、そこがよく使われる。上記アパートにいた時、そこで総決起集会なるものが催され、除染作業員は慌てて服を着替えて行った。

 この安積郡衙のあった周辺が郡山と呼ばれ、それが地名の起こりだそうだ。

f:id:hatehei666:20150317152733j:plain

 ちなみにこの安積国造神社のあるさくら通りをもう少し西に歩くと、開成山公園がある。ここの野球場などが東京五輪の候補地となった事がある。上の写真はその公園。

 小泉氏によると、この郡山は古くから交通の要衝として発展した宿場町だったとある。それが発展して東日本有数の商業都市となった。

 私が見に行った時、随分たくさんの不動産会社があった。しかし福島に縁のない人には、絶対貸さないという大家さんばかりだった。どこの馬の骨かわからないからだ。確か二本松でもそんな経験をしたが、郡山では「にべも無い」という表現がぴったりだった。今はどうか。特に双葉郡では若い人が戻らず、支援したいという人を喉から手が出るほど欲しがっている。

 小泉氏はそうした商都の賑わいを述べた後、一転して心を癒してくれる場所を挙げていた。地名は西田町。私は行った事がなかった。歩きまわっていた時は、ずっと西にある東北自動車道のガード下をくぐり、そこから景色が一変したのを覚えている。のどかな田園風景が広がっていたので、てっきりその近くかと思った。

 そうしたら真逆で駅から東、私が除染で泊まっていた富久山町のさらに東にあった。三春町に近い雪村庵という所だった。地図で確かめても、静寂な場という感じがする。

 郡山まではいわきから国道49号で行ける。上記開成山公園と郡山短大の間を通る。上の写真を撮ったところの手前だ。これが49号だったのかと感慨深い。いつか車で行ってみよう。見逃していた安積疎水も見たいからだ。

f:id:hatehei666:20150317151114j:plain

写真は49号を南から北に向けて撮った写真で、右手奥が開成山公園、左手は郡山女子大学・短期大学。

 

湯長谷城址を見て来た

「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた」(ヨハネ20:8)

 既に戊辰戦争の跡地を幾つか見て来たが、いわき市の下湯長谷地区にある湯長谷城址を初めて訪れた。

 とにかくこの地区は道幅も狭く渋滞ばかり、土地勘が無い私は、車で行くのに難儀した。スーパーのある信号手前を左折して坂を上るが、狭い道のわりには車が頻繁に行き交う。道に沿って古そうな屋敷が幾つか見える。

 その一角に、歴史の古い湯長谷城址がある。いわき市立磐崎中学のグラウンドが城址で、石碑が立っている。そこはフェンスが無く、見学者は自由に写真が撮れそうだが、そのように取り計らってくれているのかどうかは分からない。本当は許可が要るのだろう。だから写真を素早く撮って退散した。「館址」とあるが、「館」は国語辞典では「小さな城」という意味で、立派なお城があるわけではなく、周囲に堀を築いた跡くらいしか残っていない。

f:id:hatehei666:20190216115609j:plain

 中学から坂を少し下りたところにある陣屋配置図を見ても、堀で囲まれているので、その事が分かる。

 私が見たのはこの配置図の立っているところから直ぐ見つかる空堀である。

f:id:hatehei666:20190216115946j:plain

 ここは標高40~50メートル、当時水を湛えていたとしても、高が知れている。むしろ写真左手の奥にある林から下を覗くと分かるが、急斜面になっている。

f:id:hatehei666:20190216120242j:plain

 見て分かったわけだが、ここのほうが天然の要害である。新政府軍が攻めて来ても、かなり持ち堪えそうな感じだった。

 実際にはこの館の主で、奥羽越列藩同盟に加盟していた13代目の内藤政養(まさやす)の戦略上の失敗だと思う。まだ12歳だったので、新政府軍の板垣退助らとは比較にならない。藩兵たちは白河城などの防衛で、館から離れており、そこを突かれたのだろう。内藤は一旦仙台に逃れたものの、すぐ降伏してしまったのである。こうなると磐城平城の攻め落としが容易になる。

 歴史を辿る旅は、いろいろな事を教えてくれる。近いうちに白河城に行ってみたい。

 

 *期間をあまり空けずにブログを書いて来たが、どれ位出来るか、ブログ友だちmiyotyaさんの驚異的な速さの日記を参照してみた(https://miyotya.hatenablog.com/)、既に3764記事を書いておられた。私はこの時点でやっと1800記事、2分の1以下である。しかもmiyotyaさんは、全てのコメントに返答しておられる。私にはそれがなかなか出来ない。少しでも返答する為、或いは☆印をつけてくれた方のページ閲覧の為には、4日に1度の更新くらいがやっとかなと思い、これからはそのペースでやってみる。

 これまで閲覧して下さった方々、コメントを書いて下さった方々に深く感謝します。