湯長谷城址を見て来た
「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた」(ヨハネ20:8)
既に戊辰戦争の跡地を幾つか見て来たが、いわき市の下湯長谷地区にある湯長谷城址を初めて訪れた。
とにかくこの地区は道幅も狭く渋滞ばかり、土地勘が無い私は、車で行くのに難儀した。スーパーのある信号手前を左折して坂を上るが、狭い道のわりには車が頻繁に行き交う。道に沿って古そうな屋敷が幾つか見える。
その一角に、歴史の古い湯長谷城址がある。いわき市立磐崎中学のグラウンドが城址で、石碑が立っている。そこはフェンスが無く、見学者は自由に写真が撮れそうだが、そのように取り計らってくれているのかどうかは分からない。本当は許可が要るのだろう。だから写真を素早く撮って退散した。「館址」とあるが、「館」は国語辞典では「小さな城」という意味で、立派なお城があるわけではなく、周囲に堀を築いた跡くらいしか残っていない。
中学から坂を少し下りたところにある陣屋配置図を見ても、堀で囲まれているので、その事が分かる。
私が見たのはこの配置図の立っているところから直ぐ見つかる空堀である。
ここは標高40~50メートル、当時水を湛えていたとしても、高が知れている。むしろ写真左手の奥にある林から下を覗くと分かるが、急斜面になっている。
見て分かったわけだが、ここのほうが天然の要害である。新政府軍が攻めて来ても、かなり持ち堪えそうな感じだった。
実際にはこの館の主で、奥羽越列藩同盟に加盟していた13代目の内藤政養(まさやす)の戦略上の失敗だと思う。まだ12歳だったので、新政府軍の板垣退助らとは比較にならない。藩兵たちは白河城などの防衛で、館から離れており、そこを突かれたのだろう。内藤は一旦仙台に逃れたものの、すぐ降伏してしまったのである。こうなると磐城平城の攻め落としが容易になる。
歴史を辿る旅は、いろいろな事を教えてくれる。近いうちに白河城に行ってみたい。
*期間をあまり空けずにブログを書いて来たが、どれ位出来るか、ブログ友だちmiyotyaさんの驚異的な速さの日記を参照してみた(https://miyotya.hatenablog.com/)、既に3764記事を書いておられた。私はこの時点でやっと1800記事、2分の1以下である。しかもmiyotyaさんは、全てのコメントに返答しておられる。私にはそれがなかなか出来ない。少しでも返答する為、或いは☆印をつけてくれた方のページ閲覧の為には、4日に1度の更新くらいがやっとかなと思い、これからはそのペースでやってみる。
これまで閲覧して下さった方々、コメントを書いて下さった方々に深く感謝します。