ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

郡山の由来

「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた」(創世4:17)

 19年2月5日の福島民報では、発酵の研究で有名な、東京農大名誉教授の小泉武夫氏が、郡山市の事を書いていた。

 郡山市には物件を求めて何回か行った事がある。2015年夏は、そこのアパートから、二本松市の山林除染に関わった。いずれも良い思い出がなかったので、この地名の由来には全く関心がなかった。

 しかし上記小泉氏の文章を読んで、少し考えを変えた。

 701年政府は大宝律令という法典の中で、全国を60余りの国に分け、その中に郡と里(後に郷)を置く事を決めた。そして国には国府、郡には郡衙という役所を置いた。下の写真は多賀城市国府址。

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 福島県は当時陸奥国に属し、郡山は郡衙に属し安積郡と呼ばれていたそうだ。陸奥国府宮城県多賀城市に置かれた。安積郡衙については、地図を見ると郡山駅西側の直ぐ近く、清水台という地名の所に、安積国造神社というのがあって、その近くにあったと言われている。さらにその直ぐ西にホテルハマツがあって、県などの会議がある時は、そこがよく使われる。上記アパートにいた時、そこで総決起集会なるものが催され、除染作業員は慌てて服を着替えて行った。

 この安積郡衙のあった周辺が郡山と呼ばれ、それが地名の起こりだそうだ。

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 ちなみにこの安積国造神社のあるさくら通りをもう少し西に歩くと、開成山公園がある。ここの野球場などが東京五輪の候補地となった事がある。上の写真はその公園。

 小泉氏によると、この郡山は古くから交通の要衝として発展した宿場町だったとある。それが発展して東日本有数の商業都市となった。

 私が見に行った時、随分たくさんの不動産会社があった。しかし福島に縁のない人には、絶対貸さないという大家さんばかりだった。どこの馬の骨かわからないからだ。確か二本松でもそんな経験をしたが、郡山では「にべも無い」という表現がぴったりだった。今はどうか。特に双葉郡では若い人が戻らず、支援したいという人を喉から手が出るほど欲しがっている。

 小泉氏はそうした商都の賑わいを述べた後、一転して心を癒してくれる場所を挙げていた。地名は西田町。私は行った事がなかった。歩きまわっていた時は、ずっと西にある東北自動車道のガード下をくぐり、そこから景色が一変したのを覚えている。のどかな田園風景が広がっていたので、てっきりその近くかと思った。

 そうしたら真逆で駅から東、私が除染で泊まっていた富久山町のさらに東にあった。三春町に近い雪村庵という所だった。地図で確かめても、静寂な場という感じがする。

 郡山まではいわきから国道49号で行ける。上記開成山公園と郡山短大の間を通る。上の写真を撮ったところの手前だ。これが49号だったのかと感慨深い。いつか車で行ってみよう。見逃していた安積疎水も見たいからだ。

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写真は49号を南から北に向けて撮った写真で、右手奥が開成山公園、左手は郡山女子大学・短期大学。