ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

孤軍奮闘した浪江町長

「【主】に私は身を避ける。どうしてあなたがたは私のたましいに言うのか。『鳥のように自分の山に飛んで行け』」。

今僕は上のものを目指し、先に向かって進んでいるが、10年前の事も忘れない。

その10年前浪江町はどういう状況だったのか。市の広報では福島第一原発から浪江町の一番近い所で約4キロ、役場まで約8キロ、そして問題となる津島までは約30キロとある。

朝日新聞の記者三浦英之著『白い土地』を読むと、情報が途絶えた中での避難の迷走ぶりが良く分かる。当時の浪江町長は馬場有(たもつ)氏。陣頭指揮をした後体調を崩し、三浦氏が取材要請をしてもしばらく実現しなかった。2014年に判明した胃がんは、おそらく悪性で腸への転移は早かったと推測する。けれども馬場氏自らの要請で、口述筆記が完全でなくても実現し、極めて貴重な記録となった。

2011年3月11日町長室で会議をしていた馬場は、強烈な地震に見舞われた。午後2時46分。それから7分経過した3時33分、庁舎の最上階で請戸港を凝視する馬場の目にどす黒い津波が入った。請戸地区は壊滅状態になった。

しかしその後全く想定外の福島第一原発事故が生じた。東電は国や県、そして大熊・双葉町に対して、4時時45分には通報を出していた。それを踏まえて国はその日の夜9時23分、一部の地域に避難勧告を出した。

しかし浪江町には当日国・県・東電から何の連絡も来なかった。特に東電は原発事故の時必ず直ぐ連絡を入れると約束したのに、全く音沙汰なしだった。これは今日でも良くわきまえておかなければならない重大な教訓である。一見信頼に値すると思われた相手が、意思疎通を図る事もせず、いとも簡単に約束を反故にする。今もそうだからだ。放射能汚染水を海洋に放出するという例は典型だが、他にも枚挙に暇が無い。

だからむしろ約束事は幻であり、「約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか」(アモス3:3)と心得ていたほうが確かである。さらに「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか」(へブル10:23)と証された、唯一の真実な神だけがおられる事を銘記すべきだ。

結局浪江町民は何の情報もないまま、12日早朝西部の津島地区に避難する事になった。これはやむを得ない選択肢だったと思う。馬場はそこで陣頭指揮を執る。町民21,000人のうち、約8,000人が避難していた。その時点までに緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム=SPEEDIが多少とも活用出来た筈だが、それは非公開で馬場の元には届かなかった。

しかしその津島地区には12日の夕方防護服を着けた男が2人ワゴン車で来ていた。彼らはただ「ここは危ないから」とだけ言って去ったようだ。その事を聞いた馬場は、翌13日午後、自ら出向いて、十数人の防護服姿の男たちが、放射能を測定しているのに出会った。でも彼らは馬場の詰問に黙秘したまま、真相を伝える事をしなかった。

馬場は悲憤したが後の祭りで、3月15日さらに西の二本松市に移動する事を決断する。下の写真は東和地区農家民宿「ゆんた」と、沖縄から移住した仲里さん。

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二本松市東和の支所がそれだけの数の町民を受け入れてくれた。これはすごい事だったと思う。僕が福島移住の為、最も早い段階で訪れたのはこの東和地区だったし、移住の為の突破口となる除染での大怪我も、ここからすぐ近くで生じた。浪江町民が大挙してここに避難していたというのはずっと後で知った。市内の17ヶ所に避難所が設置された。さらに4月には二次避難所も追加された。二本松は意外に雪の深いところで、避難された方々はさぞ大変だったと思う。ちなみに浪江町の最新の広報によると、最終的には県内避難者約14,000人、県外約6,000人となっている。

3月下旬にやっと東電は「偵察隊」を二本松によこし、謝罪だけ繰り返して見舞金を渡そうとした。馬場がそれを拒否したのは言うまでもない。

そうした経緯から馬場の心は、そしてその身体も急速にむしばまれていったと思う。彼は「町民の辛苦を一身に背負ったように」、痩せ細り69歳で逝ってしまった。それは復活前の救い主イエス・キリストに重なる。「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った‥」(イザヤ53:2-53:2-4)。

それと共に、私は悲惨な死で終わらず、三日目に復活したキリストに希望を託する。

また町民の為に心底尽力された馬場氏に心から敬意を表する。あの当時毀誉褒貶があったにしても。

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二本松市で使われたログハウスタイプの仮設住宅は、私が泊まった事のある「いこいの村なみえ」に移設され、今も生き続ける。上の写真はいこいの村なみえ。

 

 

原発事故から10年過ぎたが。

「しかし、【主】は今日に至るまで、あなたがたに悟る心と見る目と聞く耳を与えられなかった」(申命29:4)。

はじめの人間が神に背いて罪を犯してから、神は御自分の民イスラエルに「悟る心と見る目と聞く耳」を与えず、民はと言えばますますそのうなじをこわくしていった。

それは今日も全く同様である。罪人は全く見る目を持たず、聞く耳を持たず、物事を悟る事をしない。

原発事故が起きてから10年経過した。2012年には国会を包囲する形で、激しいデモが行われた。今思い出しているのだが、その隊列をすり抜けて帰途に就く官僚たちは、皆一様に無機質な顔つきだった。

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今はもっと悪いのではないか。権力者たちの意向を忖度し、原発で追われた弱い人々を思いやる事もなくなった。上記画像は請戸漁港から見た21年4月8日の福島第一原発排気塔群。

ずっと原発関連の記事や本を読んで来たが、この10年間を振り返り、過去から現在に至るまでその総括を的確に出来る人も、そう多くなくなった。

それが出来る稀有な人と言えば、大学で原子力工学を学び、途中で悔い改め、一貫して反原発の立場を貫いて来た小出裕章氏の名が挙げられるだろう。

小出氏は最近『原発事故は終わっていない』という本を出した。僕は早速図書館で借りて読んだ。全ページにわたりその実直さが良く表れている。

実は僕はこの本を読んであまり目新しい事を発見しなかった。

退官後信州でこの出来事を見続けている氏の主張は、従来と全く変わらなかったからである。冷静に平易な言葉で、専門家の立場から現況を解き明かし、忘れ去ろうとしている人々に鋭い警告を発している。その主張は10年前とほぼ同じである。目に見えない有害な物質は、例えばセシウム137の場合、80分の1に減るまで190年かかると言う。誰も行く末を見届ける人はいない。その間繰り返し事故でも起きない限り、福島第一原発の悲惨さを伝える人は居なくなる。

身も心もボロボロにしてゆくこの執拗な事故の影響力は、政治家にも官僚にも、原子力を推進しようとしている人々にも、もはや及ぼさなくなった。

潮流を変えたのは政府関係者である。いつまでも漏れ続ける汚染水に対して業を煮やし、先手を打って海に流そうと決断した。他の方法もあるのに棚上げし、猪突猛進で実行しようとしている。190年どころか11年も忍耐する事が出来ずに。

漁業関係者に失望と怒りを引き起こしているが、彼らの中には「風評被害」だけを心配している人がいる。しかし小出氏はそれは全て「実害」であり、国と東電がその加害者であるとズバリ指摘している。

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僕はこの実害が及ぶ浜通りでは、工事中でその全貌を見る事が出来ずにいた、浪江町の請戸漁港を初めて見て来た。下の写真にあるように、多くの漁船が係留していた。

乗組員はほとんど見かけなかった。漁協にも人影が無かった。全世界を敵に回すこの歴史的愚挙を、固唾を呑んで見守っているのか。沈黙の抗議か。

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一方で目に見えないけれども永遠には続かない放射能を、早く終息させるべく摂理によって立ち上がる永遠の神がおられる。私たち信徒はその方に信頼を置き、明るい未来を見据える。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(コリント第二4:18)。

古川日出男著『ゼロエフ』から考えた事

「あなたは七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない」(申命15:1)。

古代イスラエルにおいては、「シェミッター」と呼ばれる負債免除の年が七年毎にあった。貸主はみな、その隣人に貸したものを免除する事になっており、主なる神がそれを布告された。
では原発事故を起こした東電はどうか。放射能をまき散らすという前代未聞の負債を負った東電は、その廃炉を完全に終え、賠償を完全に済ませるまでは責任免除とはならない。それには七年を七倍しても終息とならない。七×七×二でも九十八年、まだ負債はゼロにならないだろう。

古川日出男氏は郡山市出身の作家である。そこは中通り原発放射能の影響は受けても、実際の津波放射能による帰還困難という実態をつぶさに見る事はない。

古川氏は1966年に生まれ、18歳で大学の学びをする為上京し、おそらくそのまま東京に留まったのだろう。だから2011年の東日本大震災を僅かに垣間見ただけと思われる。

それから10年が過ぎたが、東京五輪はと言えば、元々の開催年は2020年だった。古川氏は「復興五輪」と名付けられたその五輪の年に、福島の復興が果たしてどの位進んだのか後退したのか、実際見てみようと思った。その昔小田実が『何でも見てやろう』を書いて、米国放浪の無銭旅行に出たのと同じような出で立ちで、夏の暑い最中徒歩で実行したのである。それは中通りの国道4号を北上し、次に浜通りの国道6号を南下し、福島県で言うなら新地町からいわき市勿来町に至るまで全280キロの旅だった。後に4号と6号の交わる宮城県も旅して総計360キロにもなった。それが『ゼロエフ』という本に結実した。

福島で生まれ育ち、中通りを主体にその像が育まれて来たのを一度リセットし、虚心に大震災後の福島像を再構築しようとする試み、ゼロからの再出発の試みが、題として採用された「ゼロエフ」の象徴的な意味だ、と或る人は書いた。つまり福島第一原発(ⅠF=イチエフ)、第二原発(ⅡF=ニエフ)の終焉を踏まえ、Fukushimaからのゼロスタートという事だ。

しかし具体的な意味は本文に載っている。先に大熊町双葉町に跨る福島第一原発(=イチエフ)、そして楢葉町富岡町に跨る福島第二原発(=ニエフ)が東京電力によって造られた。そして次は浪江町南相馬市小高区に跨る福島第三原発が、東北電力によって造られる予定だった。しかしそれは第一原発の過酷な事故に鑑み、計画が断念された。通称「浪江・小高原発は幻に終わり、ⅢF=サンエフは存在しないという意味でゼロエフになった。東北電力はその所有する土地を無償で譲渡した。放置しておけば負の資産となるのを譲ったのだから、反対運動をしていた人々とも折り合いがついた。

しかしそれは手放しでは喜べない。東北電力女川原発東通原発を所有しているからだ。過酷事故を起こした東電の原発廃炉過程とは比較出来ないにしても、それが役目を終えた後、負債にはならないという保証はない。

古川氏はこの幻のサンエフの所在地に行く。そこは浪江町棚塩地区にあり、現在福島水素エネルギー研究フィールドという世界最大級の水素製造拠点が、本来の原発の広さを縮小した形で立っている。それでも広い。工事中は隔ての柵で全く中が見えなかったが、いざ全貌を現わすと、世界最大級という位の大きな施設となった。これは以前のブログで触れたが、再度写真を載せる。海のある東側から撮影した。

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 そして土地は広いから写真の奥の建物の先に「復興牧場」というのも整備されるそうだ。

だがこれらは全ていわゆるイノベーションコースト構想の一部だ。3月7日の毎日新聞を見ると、ここ浪江での「国と県肝いりの事業」に対しては町民は冷ややか、「町民が求める復興と町や県、国が描くものは決定的にずれている」。その通りだと思う。常磐線浪江駅を降りて、かつての中央商店街を一瞥すれば明らかである。更地ばかりで今もひとけはない。人が戻らない。

ならば「陸の孤島」であるこの福島水素エネルギー研究フィールドだって、いつまでもつのか分からない。古川氏はサンエフが潰え去った後の敷地に立つこのフィールドは、距離的に見ればサンエフに対してゼロエフであると言う。それはそうだ。しかし僕は別の見方をする。地域に大事にされないこの福島水素エネルギー研究フィールドは、将来的には沈没する。福島県人に何の益ももたらさない。その意味でのゼロエフになる、と思う。

古川氏が訪れた新地町から勿来町までのところどころの記事は、僕もだいたい行ったので良く分かる。ただ4号北上、6号南下の本の記事は、理路整然とはしていない。そこが面白いのだろうが、時間が無くて、思考力も落ちた僕は、纏めながらブログに書く事は難航した。でも福島の現状が分かるから一読をお勧めする。

 

 

賄賂は贈る側も受ける側も心を滅ぼす事になる

「虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす」(伝道7:7)。

聖書的な倫理規定を全く欠く日本では、特に政治の世界では「彼の口のことばは不法と欺き。思慮深くあろうともせず善を行おうともしない。彼は寝床で不法を謀り良くない道に堅く立ち悪を捨てようとしない」(詩36:3-4)という風潮が幅を利かせており、誰もそれを阻止する事は出来ない。

その中にあって、広島選挙区での買収事件の被告河井克行氏の一貫した無罪主張は、聖書的な見地から少し注目していた。公判の結果はどう出るだろうかと思っていた。

聖書では「二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない」(申命17:6)とあるように、複数の証人の一致で事が決まる。それほど証人の証言は重視されている。

今回克行被告から現金を受け取った地方議員ら複数から、それを認める告白が相次ぎ、

克行被告は到底無罪を押し通す事は出来ないと思っていた。でもそれだけ頑なに無罪を主張するには、何かはあるだろうなとも感じていた。

しかし3月24日の新聞報道で、克行被告は一転して買収を認め、同時に議員辞職も表明した事が分かった。

なぜ突如180度向きを変えたのか?選挙を控え、不利になる事を恐れた自民党からの強力な圧力があったのかと一瞬思った。

だが毎日新聞の伝える克行被告の翻意は、神の御前で自分の内面に向き合い素直に罪を告白するようにという、親交のあるカトリック神父の強い勧めがあったからだそうだ。

それで翌日の東京新聞による克行被告のコメントを全文読むと、いまだ罪に対する認知のくだりは見つからないものの、「お金で人の心を『買える』と考えた自らの品性の下劣さに恥じ入るばかり」という表現があって、正直な気持ちであると思った。

僕はここで詩篇49:8「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない」を思い出した。人は幾ら大金を払っても、死んだ人の魂を買い戻す、救い出す、地上に引き戻しもう一度生かす、という事が出来ない。それは自明の事だ。ただ贖い主イエス・キリストだけがお出来になった。同じように神が造り、制御下に置いておられる霊魂を、有限な人が勝手にモノで支配する事など出来ない。そんな高慢な者を神は厳しく罰される。「見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ」(エゼキエル18:4)。

克行被告は「自らの品性の下劣さ」、つまり「自分の罪深さ」を恥じている。これは魂の救いの為の一歩前進であると考える。だって世の中には自分が罪深い事さえ分からず、平気で嘘をついている人がゴマンといるからだ。

果たして僕の考え方は甘いのか、間違っているのか。「あなたが『そのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それをご存じないだろうか。人の行いに応じて、報いをされないだろうか」(箴言24:12)。

 

 

21年2月13日、3月20日の大地震

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです」(マルコ13:33)。

2021年2月13日夜11時8分、マグニチュード7・3の大地震福島県沖を震源として生じた。それまで私たちはコロナウイルスのエピセンター(=震源)はどこかなどと詮索しており、まさか東日本大震災の余震(本震のマグニチュードは9)と言われる地震が、これほどの揺れを伴って起きるとは思ってもいなかった。

実は阪神大震災地震を姫路の北に位置する夢前町で経験したが、その時もマグニチュードは7・3だったという。午前5時46分僕は母と家の中におり、2階で寝ていたが、もう少しでひしゃげると感じた頃は、衣服を着てガラス戸を開け、脱出の為に身構えていた。

今度の福島沖の地震の強烈さは、直感的に淡路島北部を震源とする地震と同じ規模だと思った。データはその通りだった。その割に被害が少なかったのは、不幸中の幸いだった。

それに比べると、東日本大震災は帰宅途中で、工業団地の柵に摑まり工場に勤める人たちが悲鳴を上げて出て来るのを尻目に、道の電柱が倒れ電線が垂れ下がらないかどうかを注視する余裕があった。帰宅してから本棚などの散乱状態を見て、その凄さを実感した次第である。

2月13日はまだ机に向かって書き物をしていた。移ったばかりの新しい家の状態を、回転椅子を自在に動かし、細かく観察していた。キッチンの開き戸が開いたが、収納されていた食器は全く落下しなかった。これは本当に不思議だと思った。いわき市ではそんな状態だった。

ところが南相馬市や相馬市など、震源地により近い方々の被害状況はひどかった。

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震度6強を記録したようだが、足の踏み場もない状況だった。我がブログ友だちの相馬の家では、初めて避難生活を余儀なくされた。

地震の初期に津波が来るかもと教えてくれた人(東日本大震災の時、国道6号渋滞の場合、迂回路としていた沿岸の道路に行くつもりが、障害物などもあり又6号に出てしまった為、津波を免れた人)がいたが、それも無かった。阪神大震災でもそうだった。僕は絶対押し寄せて来ると確信していたが、空振りだった。廃炉作業中の福島第一発電所も、おおむね大丈夫だった(細かい破損個所はタンクを始めこれから明らかになるだろう)。

結局震源の深さが決め手だった。確定したその値は55キロだった。東日本大震災では24キロだったという。

僕たちは自然災害の大きさを正確に予測出来ない。東電3被告が津波予測15・7メートルを予見出来なかったと主張したが、その真意はとにかく、僕たちだって五十歩百歩である。僕も震度6弱は全く想定外だった。ならば最悪の中での最善を追求すべく目を覚ましていよう。まず出口に至る通路にガラスなど壊れるものを置かない。ベッド周囲は飛んで来そうなものを遠ざけるなど、少しづつ部屋を整理していた。

なのに3月20日18時9分、またもや震度4弱の地震が発生した。先にスマホに警報が入ってから揺れが来たので身構えていたが、警報が先というのは不気味だった。これも震度60キロ、被害は2月13日よりさらに少なかった。しかし家の中で観察していて、相当な歪みが生じたのではないかという程の変化を感じた。配管とか電設など大丈夫かと一瞬思った。

ちなみに東電第一原発敷地の汚染水処理タンクは高さ6メートル、直径3メートルもある巨大なものだが、2月25日の発表では、53基に最大19センチのずれが生じたという。亀裂が生じて汚染水が一気に海にという最悪の事態は避けられた。

こうした地震の災いについては、聖書に「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです」(マタイ24:7-8)とある、終末期の特徴の一つであるのは、間違いないと考える。とにかく目を覚ましていよう。

 

 

 

3・11から10年目の大熊町

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」(イザヤ43:19)。

東日本大震災、特に原発事故から10年になる3月11日、急に思い立って福島第一原発のある大熊町、そして北側で隣接する双葉町中野地区、教会の友人が新たに小さな家を建てた浪江町まで行ってみる事にした。

車で1時間半。富岡インターのある所から35号線を通り、大熊町役場に行ってみた。

特に理由は無い。役場を中心とした大川原地区の復興状態を一瞥し、解除になった大野駅西口周辺を確認するくらいのつもりだった。

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前方真ん中に見える2階建て建物の右側にテントが見えるが、そこでは大熊町追悼の碑「希望の灯り」の除幕式が行われる事になっていた。それは阪神大震災犠牲者鎮魂の為の石碑の上にあるガス灯から分灯されたものだという。

僕の所属教会はずっと東のほうにあるが、死者の為の祈りは捧げない。今生きている信徒たち及び求道者たちの、希望に溢れた将来を追い求める。主がそれを成し遂げられる。10年前の銘記すべき午後2時46分は、車で帰途の途中いわき市に入った頃迎えた。

大熊町はこの地区だけが発展途上にある。食事の為の店やいろいろな商業施設もここだけにある。良く晴れた日で、背後の山々が美しかった。しかしそこに人は決して入って行く事が出来ない。放射能が高く、今なお帰還困難な場所だからである。福島第一原発

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事故は、そのように多くのすばらしい自然を奪い、人々を避難させ、10年経過後も尚、到底除染・人の帰還など適わない。

その後僕は一つ道を間違え、通行を妨げる柵に何度も追い返され、やっと一部通行可能になった大野駅西口に来る事が出来たが、その手前に閉鎖中の県立双葉翔陽高校を見つけた。2017年に休校となった。僕は誰もいないこの学校に進入したが、まだ立ち入

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り禁止だったかもしれない。早々に立ち去り、大野駅に向かった。駅舎だけは立派だったが、まだ西口付近の大半が帰還困難で、人は住めない。

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ここから車で東口に行くには通行許可証がないと、だいぶ遠回りになる。以前解除後一回来た事があるので、そこからは直ぐ国道6号に乗れた。

北隣の双葉町中野地区にある出来たばかりの伝承館近くから、福島第一原発近くにアクセスしようとしたが、ちょっと近過ぎたせいか、原発の鉄塔など見えなかった。さらに北の浪江町請戸地区から、かろうじて見える程度と分かった。だから帰りに6号の第一原発信号から左を見て、廃炉作業中の原発を覗いた。後続車が続いたので、下車して写真を撮る事が出来ずに、帰宅の途に就いた。

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僕にとっては大熊町とそこに立地する第一原発が、10年経たこれからも原点となり続ける。

突然の下血と入院

「私は切に【主】を待ち望んだ。主は私に耳を傾け助けを求める叫びを聞いてくださった」(詩40:1)。

2月25日の昼過ぎ突然下血した。血を見るとどす黒い色だったので、大腸のどこかに病巣があるに違いないと思った。

翌日かかりつけ医のクリニックでの採血検査では、赤血球、ヘモグロビン、ヘマトクリットなどの値が軒並み低下し、相当な貧血状態になっていたそうで、緊急入院となった。しかしコロナ騒動の中、なかなか受け入れてくれる病院がない。三度目の電話でやっと労災病院が受けてくれた。クリニックからそこまではかなりの距離がある。医者は救急車を呼ぶと言う。僕は慌てた。入院の準備は全くしていなかったし、車もクリニックの数少ない駐車場の一角に置いてある。

けれどもその時、僕の住む家の1階に常駐している看護師さんが、いつでも送り迎えしてくれると言ってくれたのを思い出し、携帯で呼び出したらすぐ行くとの事だった。

僕はほっとしたが、車をどうしようかと思った。ところがその看護師さんは、仕事中の僕の愛する教会員を一緒に連れて来てくれた。それが「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい」(ピリピ2:4)を実践するキリスト者の心構えなのだ。

主として自分の益だけ考えて他人の事を忖度する世の人々とは全く好対照である。

それで僕は無事病院まで送ってもらい、PCR検査の為に個室に隔離されたのだった。

24時間の点滴と共に翌27日から輸血が始まった。2単位400ccか。45年ぶりの事だった。リンゲル液の点滴の為確保された右手血管のすぐ横にもう一つだから、固定されていても、トイレで移動し帰ると速度が遅くなったりする。血液は直ぐ凝固してしまうので、いつも注視していなければならない。これは結構しんどかった。

28日の日曜日PCR検査結果が出て「陰性」、ほどなく標準の6人部屋に移った。

そして胃の内視鏡と大腸の内視鏡の検査が3月1,2日に続けてあった。まず胃の内視鏡。担当医は慣れた手付きでカメラをぐいぐい押し込んで行くが、全く痛くなかった。異常も見つからなかった。2日が本命ともいえる大腸検査。これは私たち素人が一番嫌がるものだ。しかも下剤を飲んでいるのに、急遽また輸血が始まり2単位を追加。一番きつかった。

そして腸カメラの挿入。これは僕も横から眺めていたが、全く痛む個所が見つからない。遂に小腸との境目まで来たが、病巣は、或いはその痕跡は皆無だった。全く意外だった。

しかし腸カメラは続く小腸まで届かないから、別の日にそれを実施して欲しいか、医者は僕に訊いて来た。僕は結構進んだ腎症がある。それでバリウムを飲んでの検査は、腎臓に重い負担になると告げられ、きっぱりやめる事にした。

後は病室で経過を見る事になった。検査で何もなかったから、その日の夕方には普通食が出た。これは嬉しかった。正味4日の断食の後だったので、出されたものは何でも美味しかった。食べる事の楽しみ、喜びが溢れた。若い伝道者はこう告白した。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ」(伝道者の書8:15)。写真は3日雛祭りの時で、夕飯に鯛が出た。

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大腸に異常がなかったからには、早く退院したいと思った。医者に頼み6日に退院となった。それから10日経過したが、全く順調でどこにも痛みはない。

一体何だったのだろう。僕も医者も良く分からない。ただ全てを御存じの神だけが知っておられる。もしかしたら出血個所があって、それを完全に覆って下さったのかもしれない。天国に行って訊いてみないと分からない。