ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

松本仁一氏によるリチャード・ドーキンスの『進化の存在証明』朝日新聞書評批判

 松本仁一氏は東大法学部卒とありますから、概して文系で理系の書物の批評もそつなくこなす人なのでしょう。この人が朝日新聞の書評を担当しています。朝日は元々進化論一色ですから、リチャード・ドーキンス(『利己的な遺伝子』で有名な英国の動物行動学者)の『進化の存在証明』のような本が紹介されたとしても、むべなるかなです。
 ちなみにドーキンスの利己的遺伝子説とは、『新・進化論が変わる』(仲原秀臣、佐川峻共著)によれば、「すべての生物は遺伝子であるDNAの乗り物にすぎないと考えた。生物はDNAの命令によって動かされているロボットということになる。もちろんヒトも例外ではない。自分の意志で自由に行動していると思い込んでいる私たちも、本当は遺伝子に繰られていることになる」とあります。
 この新しい本の紹介では、松本氏は神=宗教に関するドーキンスの「狂信的な」箇所を好んで取り上げています。ですから松本氏は彼の思想を少なくも肯定していると考えます。
 この書評のはじめで「進化は科学的な事実なのだ。そのことを証明して見せようではないか」というドーキンスの意気込みが語られています。そして次々とその証拠が挙げられてゆきます。そして私の頻繁に見ている米国のサイトで、その会長が作った創造博物館の事も触れられています。
 そこで私の批評ですが、まずドーキンスにしても、書評を書いた松本氏にしても、全く創造論者の主張に対して不勉強で、いかに「創造論」に対して「いわれない悪意を持っていることか」という事になります。
 進化は科学的な事実である。創造論研究は信仰に過ぎない。まずこういう構図で進化論者は攻めて来ます。でも創造論者の一致する反駁は、そうはいうけれどもあなたは実際その太古の進化の現場を見て来たのかという事です。
 科学的事実といっても、実験で「再現」出来なければあくまで仮説にすぎません。いかなる進化論の本を読んでも、著者は実際に見聞出来たはずはありませんから、その言い回しでは〜だという断定の言葉が少なく、「〜と思われる」「〜と推測される」「たぶんこうだったのではないか」等々といった推測の言葉で満ち満ちています。これは科学ではありません。
 今と違った太古の時代の事など、正確に再現出来るわけがなく、実験で近似出来てもそれは、繰り返しますが「仮説」に過ぎません。それを科学的事実と主張する事こそ、「ためにする」意図があらわで、「無知蒙昧」と言われても仕方がないでしょう。ドーキンスの言葉を借りれば、「利己的信仰」に過ぎません。彼の得意な動物行動学で言えば、幼い時からの進化の真理という「刷り込み」で、人は大人になって行きます。
 聖書のヘブル書11:1を見ますと、「信仰は…目に見えないものを確信させるものです」とあります。創造論者も進化論者もそのように考えているわけですから、結局両者とも同じ土俵に立っているわけです。
 さらに言わせてもらえば、創造論研究者たちはかつては進化論を信奉しており、研究を続けてゆくうちにこれはおかしい、やはり人知を超えた誰かが成したに違いない、それこそ創造主だという事で回心し、今度はその立場で日々科学的な検証に努めています。そうした成果が毎日のように各サイトで公開されています。進化論者と同じように、実験室やフィールドワークを通して厳密な作業を行い、こちらの方が仮説としてもより妥当ではないかと主張しています。
 聖書の土台のない日本では、理科系の人が進化論から創造論に鞍替えしたケースは少なく、私の知る限りでもほんの一握りと言えるでしょう。
 ですから松本氏が最後にこの本の訳者の言葉「日本の進化論支持は約80パーセント」という表現を引き合いに出しながら、それは「戦後科学教育のたまものである。科学への宗教の介入がわが国では少ないことに、ほっとする思いだ」などと言うのは「嘘」です。日本では最初から戦後科学教育」などあったのでしょうか。戦前の日本は皇国思想一点張りで、聖書信仰者は弾圧され当然その科学的研究など不可能でした。科学は主として戦争遂行の為でした。核製造の為の原子工学、航空機製作の為の航空力学、戦艦製造の為の船舶工学等々。進化論も同じで明治の時代からの伝統であり、教育に創造論など入る余地がありませんでした。「八紘一宇」などと言う言葉がもてはやされ、その実日本人のみ優秀で、隣国の人々など劣った人種に過ぎないとするダーウイン主義的な適者生存説が幅をきかせていたではありませんか。
 米国のような「科学への宗教の介入がわが国では少ないこと」を松本氏は礼賛しています。でも圧倒的な皇国思想、人種差別、偏差値差別などが根強く残り今でも隆盛な日本で、「宗教の介入」などあり得なかったのです。
 ドーキンスの主張する「一見」利他的な行為を「実質」利他的行為とし、遺伝子に囚われているとされる「利己的な行動」を排斥し、DNAを越えた共生を図ることが今こそ求められているのではないでしょうか。