ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

結婚式より葬儀に出る事の大切さ

 前回7年間声かけのケアをして来たお年寄りの死に触れました。誰にでも必ず訪れるこの死ですが、今の世の中そうした死の場面に立ち会う機会はそうありません。ですから非常に貴重な機会なのです。
 既に意識はないと見られるのに、下顎呼吸で14時間以上粘って来られた元開業医の院長。柔道で鍛えた強い心臓の為、息を引き取られる前3回は呼吸が止り、部屋に設置されたモニターを見ながらまだフラットでないと、息を呑んで見守っていると、長く長く感じられる無呼吸の後、1回懸命に息を吸い込まれる。そうした繰り返しが3回は続いたでしょうか。既に顔色は血圧低下で青白くなっています。そして最後の吸気から呼気に移る時心臓が止り、モニターはブザーと共にフラットに。こうした場面に出くわしたのは初めてでした。最後の最後まで呼吸をしようとする頑張り。緊張して見つめる家族の方々。実に死というものは厳粛であり、もう二度と生き返りこの世で話を交わす機会が奪われてしまうのを、いやでも実感させられます。
 脱力感を感じながら、1日おいて通夜と次の日の葬儀に列席させて頂きました。
 立場上いろいろな宗教をお持ちの方の葬儀に加わった事があります。その中にはお坊さんの読経が全く分からず、ただ終わるのを待つばかりというのもありましたが、今回は浄土宗の葬儀。お坊さんの読経がわりに良く分かりました。特に通夜の日はそれが終わった後、お坊さんが内容をコメントしてくれたので、余計理解出来ました。私のキリスト教とは違いますが、列席されたご遺族の方々には慰安を与えてくれた事でしょう。
 そして翌日は時間の都合から、まず献花して生前の先生との「肉体的に」(*霊は既に肉体を離れているので)最後のお別れをしました。痰が気管に直接入り、それで苦しみ抜いた先生でした。亡くなられる2週間ほど前、こちらを向かれた時、うるんだような目で、何かを訴えようとしておられた先生、私には「先生もう頑張らなくてもいいですよ」と言えない辛さで思わず絶句。そうした想い出が走馬灯のように駆け巡り、やはり一本一本の切花を添えながら、涙が流れるのを禁じえませんでした。あのイエス様でさえ、愛する兄弟の死で涙を流されたのです。
 その肉体に棺のふたが閉められ、ご家族や私たちは斎場へ向かいました。待つ事1時間半、先生は骨だけで出て来られました。下顎骨、額の部分の骨がかろうじて分かる位です。それらはやがて地の塵と化して行きます。それを2人ずつペアで拾って骨壷に入れる淡々とした作業。最後に頭骨を上に鼻骨などそれらしく整えられて閉じられました。
 そして再びセレミニー・ホールに戻って葬儀と告別式が執り行われました。この時にはご遺族の方々には涙がありませんでした。あわただしい日々と疲労の為、遠くから参列して下さった方々へのご挨拶で一杯。
 実はそれが終わって初めて本当の悲しみや虚しさが襲って来るのでしょう。これは当然の事です。その時十分悲しんでおく事が必要です。聖書のユダヤ人は大声で泣いています。そうすると悲嘆の日々が多少長い短いの差があっても、比較的スムーズに日常の生活に復帰出来るからです。
 そうした事を考えながら、最初の人アダムが犯した罪の為に刑罰として世に入って来た死というものを、改めて厳粛に思わざるを得ません。教会では礼典としての「主の晩餐」で、主イエスの死を再度思い起こさせられます。しかし幸いな事は信徒にとってその肉体の死はそれで終わらないという事です。死は一瞬、後は天国での永遠のいのちへと移って行きます。
 上記の事柄を銘記させる為に簡潔な聖書の箇所があります。
 「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」(伝道者の書7:2)。