ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

聖書学者荒井献の主張する「だれもが弱者」

 2012年7月2日の朝日新聞夕刊に「『弱さを絆に』生きる」という題で、聖書学者荒井献さんへのインタヴューがありました。

 東日本大震災後『絆の力』で困難を克服しようという標語が盛んに吹聴されていたようですが、これは言い換えると、皆が連帯して頑張ろうというニュアンスに近いと思います。しかしこの震災それほど簡単な事ではなかったはずです。皆が打ちひしがれて、とても困難を克服出来るような状況ではなかったと考えます。努力して困難を切り抜ける事が出来たのは、新聞記事などを見ても、ごく少数の元気で恵まれた若い人々だったように見えます。彼らは頑張りがきくでしょう。でもそうでない比較的高齢の方々が多くおられ、難民化しています。
 そこで荒井さんはそうした言葉を使わず、「弱さを絆に、寄り添いあおう」と呼びかけています。いろいろな病を負った人々がそれを隠して生きるのではなく、オープンに語り合い、自分たちで助け方を見つけ、『弱さを絆に』生きる事が大切です。
 文語訳聖書でヘブル語ツァラアト(正体不明の重い皮膚病)の訳語として「癩病(らいびやう)」があてられた為、らい病=ハンセン病の元患者さんたちは謂れの無い差別を受けて来ました。その事を引き合いに出し、上から目線で向き合っても拒絶されるという召された奥様の実体験があって、一人の弱い人間として寄り添い、共に差別の問題を考えようという姿勢に荒井さんは転換したのでした。
 それは東日本大震災のボランティアにも適用出来ます。被災者を支援の対象とするのではなく、自らも一個の弱い人間として、被災者の方々に寄り添って行く事が大切だと、荒井さんは力説しています。
 この震災によりキリスト者でさえもその信仰を弱められました。誰にもいつでも容赦なく襲って来る死があります。それを不合理とか、無慈悲な神とか言ってつぶやいても、何の解決もありません。その弱さの中で次のみことばが大切です。
 「私たちの大祭司(=キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)。 
 この偉大な執り成しをされる大祭司キリストが、弱い人のかたちをとってこの世に来臨し、己を低くして病を持つ人々に寄り添われました。しかしキリストはただ弱い人ではありません。病を或いは罪を赦す権威も持っておられた神です。ですから病を癒され、救われた人々は、パウロと同じく「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(コリント第二12:9)と言う事が出来ます。
 荒井さんは内村鑑三などの信仰を前面に出す信徒とは一線を画し、史料批判などを通して辿る歴史的人物としてのイエス像を探求している学者です。そしてグノーシス主義研究の第一人者です。
 ギリシャグノーシスは一般に「知識」と訳され、聖書でも30回近く出て来ます。重要な言葉で、例えば「救いの知識」(ルカ1:77)とか、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの…知識」(ペテロ第二3:18)などといった使い方がされています。
 ところが「グノーシス主義」となりますと、残念ながら聖書の教えと異なる異端の考え方です。いろいろ難しい説明がされていますが、要は救い主キリストがこの世に肉体をもって来られた事を認めませんし、十字架の苦難は、何ら救済的な意味を持たないと辞典にあります。
 従って荒井さんは、「イエスでさえ十字架上で、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』と息を引き取った。これは人間の弱さの究極でなないか」と言っています。マルコ15:34にある有名なみことばですが、私には荒井さんの真意が分かりません。見方によってはその研究対象であるグノーシス主義によく似ています。しかしここはキリストが全ての人の罪をその身に負った瞬間、初めて父なる神との交流が絶え、罪の結果である死を恐ろしい絶望のうちに迎えて出された言葉です。その死の直前までキリストは父との交わり、同じ十字架の強盗を赦す権威を持っておられたのです。
 その点荒井さんはどうも曖昧です。ネットで「福音書の綿密な読解から、悔い改めをしていない人間の霊的救済の可能性を探った論考…」などとあるのを見ると、救いに不可欠な罪の悔い改めと、救い主イエス・キリストへの信仰という二つの重大な教理が曲げられているように感じます。プロテスタント信徒と言われていますが、こればかりは全能である神のみご存知です。私もこれ以上追及しません。
 荒井さんの人間の弱さの強調は間違いではありませんし、誰もがその事を認識するのは大切です。ボランティアをする人々も心得ておくべき事です。しかしキリストの救済の御手を否定するなら、弱い人間にただ寄り添っただけになり、その人の真の救いはありません。