ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

内田樹先生の自殺論を考えながら

 宗教者として昨年も3万人を越えた自殺者数を思うと、現代日本の病弊を否応なく知らされます。特に自殺してしまった人の家族の事を思うと、やり切れない気持ちになります。
 これまで或る勤め先まで片道2時間電車で通っていましたが、かなり頻繁にその遅れが目立ちました。信号機の故障による遅れが時々アナウンスされるほかは、だいたい人身事故によるものが多かったです。その場合の「人身事故」はまず自殺と見てよいのではないですか。
 駅から特急に飛び込んだり、遮断された踏み切りを越えて飛び込んでしまう。その人の死ぬまでの心のうちに、どんな問題が去来した事でしょうか。またどうしたら瞬間的に死ねるかなどという事も、一生懸命考えていたのでしょう。
 列車への飛び込みでは、そのどこにぶつかったかで、跳ね飛ばされたり、バラバラになってしまったりします。どちらにしても悲惨ですが、さんざ悩んでいた本人はもういません。まず本人の望んだ即死でしょう。
 その自殺者たちのうちの遺児たちが、2月25日に鳩山首相を訪ね、抜本的な自殺対策を訴えていたのが新聞報道で報じられました。鳩山さんは「愛の人」だから、すぐその対策を指示したそうですが、小泉首相の時は訴えがほとんどまともに取り上げられなかったようです。それは当然でしょう。彼の心中は自殺も「自己責任」という事だったでしょうから。その冷厳さは身に染みています。
 ところでこの自殺論ですが、神戸女学院大学教授の内田樹先生のブログを拝見しました。「Twitter と自殺について」という題のブログは、かなりの重量感があります。そして共感するところが多くありました。
 自殺率が日本で相当高いという事をすぐにデータで示せる事は、お忙しい中凄いと思います。その中で1958年という第二次大戦後13年経過した時点での自殺率が近代史上最高値だったというのは、私も何か別の本で読んだような記憶がありますが、内田先生もその理由の説明に窮しておられます。内田先生はその時8歳だったという事ですが、私は12歳、確かにこれから高度成長に向かう時期で、まだあまりモノが溢れている状況ではありませんでした。しかし私にとってもそれは黄金時代でした、つまり遊びにおいても、勉強においてもでした。
 その時分の東京はまだ空き地も多く、野球その他野原を思い切り駆け回っていましたし、多摩川でさえまだ泳ぐ事が出来ました。レヴィ・ストロースの言う「ブリコラージュ」(がらくたを寄せ集めて自分でモノを作る)の工夫で、多様な遊びが出来思う存分楽しみました。そして今深刻化している勉学の機会喪失という事においても、当時は全く貧しかった私でさえ努力すれば「成り上がる」事が出来、難関とされる大学にも合格が可能でした。私の周囲でそうした友人たちを多く見て来ました。ですから私もその年が自殺率最高という事は、何だか腑に落ちません。
 それと懐かしい事に、デュルケームの自殺論を内田先生は取り上げておられました。
 彼は自殺の社会的原因として、四つの範疇を提唱しました。その中には勿論内田先生が指摘されるように、無神論者の自殺が一番多くなっています。ウイキペディアに載っている「利他的自殺」、「利己的自殺」、「アノミー的自殺」(=社会的規範がない時の自殺)、「宿命的自殺」(今の若い人々に多いのは集団的規制が強く、個人としてそれに反すればいじめなどに追い込まれ、自殺してしまうのがこのタイプではないですか)のいずれにおいても、無神論者がトップを占めるのは当然でしょう。
 そして内田先生はこの『利己的自殺」の中での信仰者の場合も取り上げておられます。つまりユダヤ人→カトリック教徒→プロテスタントの順に自殺率が高くなるという事です。これは昔「無神論者」だった私の記憶にはありませんでした。たぶん関心が無かったからでしょう。ユダヤ人も国全体がユダヤ教旧約聖書だけ)を信じている人の割合は、確実に減っていると思います。そして国内で頻繁にパレスチナの人々と争っているわけですから、心的外傷症候に陥った人々はどうなのでしょうか?
 ではデュルケームから約百年後の今日の宗教者はどうでしょうか?
 これには正確なデータは無いと言ってよいかも知れません。聖書の教えでは自殺は罪だからです。従って教職者が自殺してしまった場合、それをひた隠しにしてしまう事があるからです。ただ日本ではキリスト教徒は極めて少ないので、自殺統計に載るほどの数にはならないでしょう。
 しかし牧師、宣教師としての牧会経験のある者の立場として言わせてもらえば、これはえらくしんどい職務であり、求道者の求めも多様であって、とことん関わると「燃え尽きてしまう」事があり得るのです。これは真面目一方の人(当然かも知れませんが)に多いと思われます。ですから或る教会のセンセイはあえて「不真面目牧師」などと自称しています。
 真面目な人→行き詰まり→自殺は、世の無神論者だけでなく、こうした教会の牧師などにも案外見られるという事を知って頂ければと思います。