ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

夫婦別姓問題と聖書の夫婦の関係

 政権が民主党及び連立を組む社民党国民新党になってから、急に「選択的夫婦別姓」の法案提出に関して、いろいろな議論がされています。
 特に政権交代後、この法案成立に積極的なのが、民主党の千葉議員と社民党の福島議員だそうです。そうした女性たちはこの制度の導入賛成が反対を上回っているという世論調査に後押しされています。
 しかしこれまで法案を成立させなかった野党自民党保守派は、一貫して反対の大合唱を唱えています。
 それだけではありません。連立与党のうち国民新党の亀井党首が、ここに来て、「夫婦別姓反対」を明言しています。
 そのため鳩山首相も持ち前の「ぶれ」で、この問題ではリーダーシップを執る事が出来ないでいます。
 日本という国は先進国中、聖書的な背景が全くといって良いほどありませんから、基準となるのは人間の作った古い民法だけです。
 では聖書はどう言っているのでしょうか?それについて亀井氏はおそらくキリスト教信徒ではないでしょうが、かなり聖書のみことばに近い、「良いこと」を言っています。朝日新聞記者の質問に答えて、亀井氏は「身も心も一緒になりたいというのが結婚するときの一般的な心情じゃないか」と答えています。そうです「身も心も一緒に」というのが、聖書の掟に近い表現なのです。
 聖書では早くも創世記のはじめの方でその事を宣言しています。
 「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世2:24)。このみことばこそ旧新約聖書を貫く根本原理です。また
 「キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです…夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません」(エペソ5:23,24,28)。ここには夫婦のかしらが夫である事が明確に宣言されています。ですから妻は夫に従うべきであり、また夫は妻を愛さなければならないのです。この夫婦そして家庭のかしらが夫=男であり、妻が従者であるのは、やはり創世記の「ふさわしい助け手」として、妻が造られた事に由来しています。けれども夫婦は互いに愛し合わなければなりません。かしらは「専制君主」ではありません。 
 でも聖書の歴史を見る限り、旧・新約のイスラエル人や異邦人はこの真理に従わず罪を犯して来ました。主である神はそれを容赦なく暴露しています。離婚、獣との交わり、一夫多妻、同性愛…。これらはとりもなおさず、神ご自身の聖さを表わす為でした。
 翻ってこのイスラエルの遠い子孫である私たちの住む日本でも、この夫婦一体の関係が崩れているところから、社会の崩壊も際立って来ます。例えば離婚が「当たり前」のこの時代、一般に有利な男性に対して、子連れのシングル・マザーは極めて不利な立場に立たされました。それはこの社会において潜在していた「貧困」を浮かび上がらせました。×一の女性は一線に立つビジネス・ウーマン、キャリヤ・ウーマンでない限り、ひどい「弱者」となってしまいました。
 また家庭のかしらである男が上記したように専制主義者と化している事から、社会の、とりわけ企業のパワー・ハラスメントが絶えません。その被害者数はおびただしい数字となる筈です。
 さらに「草食系男子」という言葉がはやっており、その定義は一様ではないものの、一般に心優しいだけの「やわな男」が増えている事が示唆されます。昔からの「地震、雷、火事、親父」という諺に象徴されるような、強力なリーダーシップを握る恐い親父がいなくなり、弱い男が増加する一方です。そうした男は幼少の時けっこう「いじめ」を受けていて、大人になってからは、企業で昇進して課長・部長になると、部下を徹底的にいじめます。上記のパワー・ハラスメントは、こうした昔弱かった男でも起こすのではないですか。
 一方女性も一流大学を出て社会に積極的に進出すると、昔の家庭に居た時と同じような「お金の心配」はありません。ゆえに夫を敬い、夫に従うという「古い」倫理観など持ち合わせていません。簡単に離婚し、単身のまま生きて行こうとします。或いは結婚したがりません。少子化の問題はこうしたところからも発生しているのでしょう(日本の経済事情も勿論あります)。
 聖書の教えを考えながら、夫婦別姓の問題は自民党国民新党の主張にいつの間にか組している私でした。以前のブログでは、「古い自民党へ戻ろうとするのですか」などと言っておきながら。