ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

刻ることの本質と罪の結果としての額に汗を流しての土地耕作

 荻上チキ氏の「トラカレ!」という人文系ニュースサイトから知った昨年発行の推薦新書に、石川九楊著『書くー言葉・文字・書』というのがあって、荻上氏が興味深い勧めをしていたので、早速図書館から借りて読んで見ました。
 確かに面白くて一気に読んでしまいましたが、結構難解な箇所が多くあり、どれくらい理解出来たかと思っています。
 時に鋭い警告をしている箇所がありました。それはパソコン=ワープロで日常の文章を綴っている私にも当て嵌まるので、どきっとしました。つまり使っているワード・ソフト(その前段階としてTeraPadというワードパッドのような簡単なもので先に作成していますが)でキーを叩いて打ち出す事が、「書くことの終焉」だと石川氏は言っているのです。漢字仮名交り文を書くのではなく、機械操作でそれを作るのは「書くことへの愚弄」と主張しているのです。
 この「愚弄」という言葉にひっかかって読み進めて行くうちに、なるほどこれは確かに「愚弄」かも知れないと考えた次第です。
 それは余談ですが、氏は第六章の中で私もやった事のある「拓本」に触れていました。私の場合は土器でしたが、氏は東洋の石碑の拓本に言及し、石碑の刻ることが書くことの元にあったという事実を私たちに突きつけています。そして書の中に「刻る」ことが含まれていると言っています。
 そこから行を変えて「刻ること」の本質とは何かという問題提起がされています。そしてそこで思わぬ表現にぶつかりました。「それは人間が備えざるをえなかった罪、すなわち原罪と関わりがある」。
 私には馴れている「原罪」という言葉の意味を氏はどう捉えているのか。そこに興味が注がれましたが、結果としてはキリスト教の「原罪」と確かに関わりがあるものの、氏の意図はいわば罪の原因、聖書は罪の結果という違いが明確になりました。
 氏は「刻る」という行為が、道具をもって土地を区切り、鋤き、掻くといった事を意味し、それによって種を蒔き、実を収穫して行く事に繋がります。つまり氏の言う原罪は、この土地という自然の一部を変形、破壊する行為、または生態系の一部を壊す事による、系からの逸脱を意味しています。そして氏はそうした行為を「猿ならしない」と言っていますから、幾分進化的考え方が入り込んでいると思いますし、キリスト教的な意味合いはないと考えます。
 では聖書のいう原罪とは何でしょうか。キリスト教大事典の定義を引用しますと、「人間の始祖(アダム)の犯した罪が、子孫である人間全体に帰せられるという教説」とあります。ですから今日の私たちは誰一人例外なく、このアダムの犯した罪を遺伝子として受け継いでいるというわけです。新明解国語辞典ですと、「人類の祖アダムとイブとが堕落した結果、人間が生まれながら負わされているという罪」と定義しています。
 そしてこの最初の人アダムの犯した罪により、聖書ではその刑罰として次のような箇所があります。
 「…土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世3:17−19)。
 アダムがまだ罪を犯す前も、彼はエデンの園で土地を耕し、そこを守りました。これは神のご命令によるものでした。神は決して自然破壊者ではありませんでした。ですからこの事実は石川氏の言う耕す行為そのものが自然の破壊であり、罪であるという事と一致しないのです。
 氏が原罪という言葉でこの聖書の教理を頭に入れていたかどうか分かりませんが、この刺激的な言葉で、私も改めて聖書の原罪を再確認した次第です。