ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

エル・グレコ カトリックの最大の過ち

 「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです』」(マタイ1:20)。

 2012年12月26日の朝日新聞に、2013年1月19日より東京都美術館で開催されるエル・グレコ展への招待広告が載っていました。
 エル・グレコは16〜17世紀のスペイン美術の黄金時代に活躍した巨匠でした。

 その16世紀の初頭(1517年)、マルティン・ルターが、腐敗した(成立当初から聖書の教えを踏み外していました)ローマ・カトリック教会に対して「95ケ条の論題」を提出して、宗教改革の口火を切りましたが、カトリック教会側もその運動に対抗して、勢力の立て直しを図りました。スペイン人のイグナティウス=ロヨラらによって1534年に設立されたイエズス会が、その活動を推進しました。従って当時のスペインはカトリックによる反宗教改革の一大拠点となりました。そうした背景のもとでエル・グレコは生まれ、その教義に忠実な画家となったのです。
 それゆえエル・グレコの絵画には、カトリックの間違った解釈が色濃く反映されたものが多くあり、主催する朝日新聞などによると、出品される「受胎告知」「悔悛するマグダラのマリア」「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」「無原罪のお宿り」等の作品のいずれにも、聖書を外れた描写があります。

 このブログを見られる多くの方は、どうして近親憎悪のような宗教的対立が生じるのか疑問に思っておられるでしょう。それはひとえに人間の「罪」から生じたものであり、「聖書」そのものは不変なのです。つまり聖書は平易にして難解、その解釈が分かれる箇所が多くあり、それを「分からない」と正直に告白し、その範囲を逸脱し敷衍して述べる事は厳に慎むべきなのですが、その分際をわきまえない人間が勝手に教義を曲げてしまうから、争い・分裂が生じ、遂には戦争まで至ってしまうという事です。これは実に不幸な事ですが、事実は事実です。
 例えば上記作品で、受胎告知する「主の使い」は聖書によれば霊であって目に見えません。しかし人間の想像力はその主の使いに羽をつけて目に見える形にしています。「悔悛又は懺悔」は天の神に対して行うべきところを、司祭の前で罪を悔い改め、赦しを頂くという事になっています。「修道士」は「修道女」と共に修道院で禁欲的な生活を送り、男女の結びつきがありませんが、そんな教義は聖書にありません(*旧約に出て来るナジル人は一定の期間だけ誓って自己を主に捧げました)。そして「無原罪のお宿り」、これは聖書からの最大の逸脱です。「聖母マリアが母アンナの胎内に原罪を免れて宿った」というものです。まず母アンナは聖書にありません。マリアは母から罪を負って生まれましたが、同じ罪ある夫ヨセフと結婚し罪ある子らを産む前に、「聖霊」による奇跡で、罪のないイエス・キリストがお生まれになります。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました…」(コリント第二5:21)。右絵画が「無原罪のお宿り」です。