ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

人の価値が下がる時代に、聖書の神の考えておられた人の役割とは

 3月17日の朝日新聞では、一橋大学教授の宮地尚子氏が「人の価値が下がる時代 張りつく薄い寂しさ」という題で書いていました。
 氏の書き出しは、近頃ぐっと増えている電車での人身事故(大抵は自殺)から始まっています。泊まった電車の車内放送で、ただ今某駅で人身事故が発生し…との音声が流れると、ああまた人が飛び込んだのだなと、神なきその人への憐憫の情とその行く末への思いを馳せ、次には動き出すまで、用意しておいた2冊ほどの本に見入っているのが、この私です。
 氏はそれに対して「驚きと憐れみを示した時代から、苛立ちに舌打ちする時代へ。やがてそのことへの良心の呵責も消え、もはや諦めが覆い、車内には薄い寂しさが漂う」と言っています。私の感情の時代は過ぎ去って、今は予定された時間の大幅の遅れに対する苛立ちを飛び込んだ人に向け、さらには諦観と薄い寂しさが漂うところまで行っているのかと考えさせられました。
 確かに車内放送のあった車両に居た私の周囲では、苛立ち、立腹の声は聞こえず静かです。誰もがその自殺者の背景に想像力を巡らす事なく、ただ声にならないため息をついている、それほどに一個の人間の価値が下がっている事を、氏は「薄い寂しさ」と表現したのでしょうか。
 今の時代はそれほどまでに金やモノへの物神崇拝が進み、人の価値が貶められています。競争の敗者は死んでも仕方がないという考え方は、勝者のエリートたちの心を相当占めるようになっています。
 でも聖書の創造主である神は人創造の時、そのような事は全く考えておられませんでした。
 父なる神、子なる神イエス・キリスト聖霊なる神が三位一体のお方として、その全知全能の力を駆使して精巧に、最高傑作として造られたのが人間でした。
 「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう」(創世1:26)。
 このわれわれという複数形が三位一体の創造主である神を指しています。そして神は人をご自分に似た者として造られました。それもご自身の「かたちに」造ってと言っておられます。この「かたち」という言葉のヘブル語ツェーレムは、英訳ではイメージとなります。新明解国語辞典の意味を見ながら表現して見ますと、「みこころの内に思い浮かべた、具体的な姿・形」とでもなるでしょうか。それがモノや動物とは異なる人の事でした。
 ですからこの三位一体の神の第二格であるイエス・キリストが地上に来られた時、聖書の筆記者の一人であるパウロは、「御子は、見えない神のかたちであり」(コロサイ1:15)と言っていますが、このかたちと訳されたギリシャ語エイコーンはヘブル語新約聖書では、やはり上記のツェーレムとなっています。従って人のかたちをとって世に来られたイエス・キリストを弟子たちが見た時、或いは今日の私たちがイメージする時、その方を通して私たちは見えない神のかたちを見ている事になります。
 地上でのイエス・キリストのいわば極限が父なる神であるとすれば、私たち造られた者もその極限では神と等しくなります。極限と言ったのは数学的意味で、決してイコールではありません。人は神よりも少し劣ります。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし」(詩8:5)。
 それほどの栄光と誉れの冠を被せられて人が造られたのは、勿論創造主である神との交わりの為でした。ただ人だけが霊を備えて造られたので、神との交わりが出来るのです。そのように神は人を重視し、重んじられました。他の被造物も神の為でしたが、決して神との交わりは出来ません。まして金などのモノもそうです。それらはやがて朽ちてしまいます。
 さらにこの神のかたちに造られた人については、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ43:7)とある通り、神の栄光の為でした。その栄光を誉めたたえ、そのみわざを表わす事が人間の「本分」でした。
 そのように人の価値は創造時、極限では神に等しいほどでしたが、人が堕落してからはそうではなくなりました。今度は人存在の極限がモノになってしまいました。いつでもモノと同じように代替可能な者に貶められました。ここに悲劇があり、創造主である神を知らない人は、その栄光を表す為に生きる事が出来ず、人を自殺に追い込み、人は自死を選んで電車に飛び込みます。当然神はその事を黙って見過ごしてはおられません。いつか大いなる怒りの鉄槌が、こうしたご自身のかたちに創造した人をないがしろにする人々に下ります。信仰のない人の誰もがその対象となります。
 このうら寂しい光景、人の価値の下落の先に再び上昇があるのかどうか、宮地教授は疑問形で閉じていますが、私は必ずその時が来るという事を聖書から確信しています。