ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

エジプト王シェションク一世と聖書のシシャク

 エジプト(*ヘブル語ではミツライム)の王は、聖書では創世記の12章に初めて出て来ます。聖書の邦訳は文語訳、口語訳、新改訳で「パロ」、新共同訳で「ファラオ」となっています。実際のヘブル語はパルオーという発音に近いです。
 そのエジプト王ですが、第一王朝は紀元前3000年頃始まったと言われ、その第二十二王朝は、およそ紀元前945年頃、シェションク一世によって始められました。そして紀元前924年まで約20年間統治したようです。彼は第二十一王朝最後のプスセンネス二世の時、司令長官だったようです。歴戦の勇士だったのでしょう。
 そして紀元前1000年以前は、エジプト王の名前は簡単に「パロ」と呼ばれていたようですが、それ以降は固有名詞も付されるようになり、第二十二王朝のパロであるシェションク一世は就任時から国内統治の安定化をはかり、それが一段落すると対外にも目を向けるようになりました。
 その時のイスラエルはちょうど第二代王ソロモン(およそ紀元前970年〜931年)から、国家が分裂して南ユダ王国ではレハブアムが統治するようになりました(およそ紀元前931年〜913年)。
 ですからエジプト王シェションク一世の統治と、イスラエル王ソロモン、ユダの王レハブアムの統治はだいたい重なっています。
 そこで聖書を見ますと、列王第一11:40に初めて固有名詞としてのエジプト王シシャクが登場しますから、上記シェションクとシシャクは同一人物と考えられます。
 そして列王第一14:25−26には、「レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来て、主の宮の財宝、王宮の財宝を奪い取り、何もかも奪って、ソロモンが作った金の盾も全部奪い取った」とあります。
 シェションク一世は南ユダ王国の首都エルサレムまで攻め込み、王宮の財宝(金銀を含む)を全て奪い取って行った事が分かります。エジプトの都市テーベの神殿には、この時の凱旋の碑文が残されています。
 そしてこのシェションク一世が亡くなると、孫のシェションク二世がオソルコン一世の跡を継ぎました。この二世の棺が1939年発見されましたが、この銀製の棺の銀は、たぶんシェションク一世のエルサレム攻略の時、奪っていったものと想定されています。
 これらの事を考えますと、聖書の記述の真実性は、隣国エジプトの資料からも裏付けられた事になります。日本で言えば、最近定説となりつつある弥生時代初期の頃の話です。