ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

大切な悲嘆のケア

 神奈川の秦野市で「生と死を考える会」を立ち上げた事がありますが、会員を増やす為の広告費などが追いつかず頓挫しています。誠に残念ですが、世の中には愛する親や友人を亡くした悲しみから容易に抜け出せず、「普通の生活」を送る事の出来ない人々が多くいます。
 私自身も母を送った後、生前好きだった短歌を必死になって覚え、それを作りながら悲しみの時を過ごし、徐々に癒されていった経験があります。その状態の時に、茨城県の土浦で「生と死を考える会」というのがあるのを知って、何回か通った事があります。責任者で看護学を教えている方が、集っている方々の訴えに傾聴している姿に感動し、その後引っ越した後も何とか自分で継承させてゆきたいものだと思っていました。運動は挫折しましたが、いつか定期的に集会が持てるよう祈っています。
 6月7日の朝日新聞では、そうした悲嘆のケアの為の活動をしている「ちいさな風の会」の世話人である、山梨英和大学教授の若林一美さんにインタビューを試みています。
 この会の設立は1988年でもう23年目を迎え、現在会員は200人ほどが集っているそうです。事務局は新宿にあります。ずいぶん大きいと感心しました。名称から連想されるように、当初は病気で子どもを亡くした親のケアが主体でしたが、最近は自死した子の親の割合が増えているそうです。対象となっている親は最近子を亡くした方から、20年以上にわたる方もいるそうです。いかに悲嘆というものが簡単に記憶の片隅に行くものでないかが分かります。
 悲嘆を話して頂き、聴く人々は一生懸命に傾聴し、余計な事は言わず、悲しみを分かち合います。聖書にも「泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)ということばがあります。話す人は泣いています。それを聴く人も泣きます。そうした会はこの類のものしかないと言えるのではないでしょうか。葬儀では、周囲を慮って悲しみを抑えてしまうのが普通です。儀式を終えて一段落し、現実に愛する者がもういない、二度と生き返らないという気持ちが高じると、一人奥まったところで声を殺して泣く、というのがだいたいの形でしょう。
 それがこうした悲嘆のケアを実践する会では、遠慮なんてありません。皆に傾聴してもらう。そして徐々に癒されてゆくのです。
 若林さんは「子どもを亡くすと、それまでの人生は消え、時間も止まってしまったようだといいます。でも、旧約聖書に『それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である』という一節があります。すべてが焼きつくされてなお、残った切り株から新しい芽が出る。そんな絶望の中の希望の芽生えに立ち会っている。そう感じることがあります」と言っています。おそらくイザヤ6:13を引用されたのでしょう。なるほどそうした適用があるのかと思いました。絶望の心の切り株の中からやがて新たな希望の芽生えが生まれて来る、そこに立ち会っているという事です。
 聖書ではこの聖なる種子とは、イスラエルの残りの者というのが一般的な解釈ですが、他の箇所との関連から救い主イエス・キリストを指すと言っている人もいます。
 そのイエスは愛する弟子ラザロの死で多くの人々が泣いているのをご覧になり、「涙を流された」(ヨハネ11:35)のです。それほど人々の悲嘆に同情された方こそ、真の「癒し主」であり、信仰者の親と子なら、共に天国で再会出来るという希望と癒しを与えて下さいます。