ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

新米教師の無念の自死と聖書

 朝日新聞の7月19日号で、「いま先生は」という題のシリーズ第一回のものが載っていました。
 内容は深刻です。2004年9月、静岡県磐田市の市立小学校に採用された新米の教師木村百合子さんが、自宅近くの光栄駐車場の車の中で自死していました。真面目で先生という職業にあこがれ、学生時代は東南アジアのストリートチルドレンの支援にも関わっていた人でした。24歳という若さでした。
 その親が公務労災の訴訟を起こし、この5月明治大学で開かれた「教師の苦悩と挫折から、希望と再生の回路を求めて」という題での集会で、上記ボランティアの活動を共にしていた中学教師が事件を知り、生前の彼女の事を語り始めたのが、記者の目に留まって明るみに出たのでしょう。
 なぜ自死したのか。小学校での先輩教師や「生徒たちのいじめ」が原因であるのは確かなようです。
 学校が荒れている事は昔から知られていました。今は教育格差がひどく、普通の公立学校では、貧しくて私立の学校にもやる事が出来ない親が子を託しています。阿部彩著『子どもの貧困』によれば、所得格差、特に母子家庭の所得格差が深刻で、筆者は学者でその方面に通じている刈谷剛彦山田昌弘氏の論文を引用しつつ、そうした家庭の子どもが学ぶ意欲を失い、将来への希望が絶たれている事を強調しています。それが原因で公立学校の「荒れ」を招いているのでしょう。
 実際木村さんの学校は荒れていました。授業を上手に運べず、怒ってばかりになってしまった木村さん。それを冷ややかに眺めている同僚たち。「悪いのは子どもじゃない。おまえだ。おまえの授業が悪いから荒れる」。こんなひどい言葉を浴びせられた木村さんは、次第に生きる気力をなくしてゆきました。
 実はこの記事には木村さんが残した日記も掲載されていました。そこに私の目が留まったのです。怒ってばかりの木村さんは、自分の人格が変わりそうだという悩みを綴った後、こう記しています。「神様 私を愛してください。神様 私を助けて下さい。神様 私にたすけ■を与えてください。神様 私を愛してください。」。ハテヘイはこの短い言葉に涙が流れます。
 もし木村さんが生前『聖書』を手にし、その中に啓示されている神様のみことばに触れ、信仰を持っていたなら…。
 聖書の神は愛です。
 「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです}(ヨハネ第一4:8−9)。
 聖書の神は助けを求める人に救いの手を差し伸べられます。
 「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた」(詩18:6)。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と言われた神、生きて助けを求める者に救いの御手を差し伸べられる救い主イエス・キリスト、この方を木村さんが知っていたら、決して自死という道は選ばなかったでしょう。福音を伝える者の一人として真に残念です。
 それにしても彼女を死に追いやった同僚の教師たちは一体何を考えているのか!自己保身ばかり。聴く耳を持たない冷酷さ。神は終わりの日にきっと彼らを公平に裁かれるでしょう。暗く苦しいハデスで、泣いて歯がみするでしょう!