ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

好評の『ガリラヤのイェシュー』教理としてはどうか

 岩手県大船渡市は東日本大震災で大きな被害を被りましたが、そこで試練はあったものの名詞の印刷・出版などを手がけるイー・ピックス出版社の社長熊谷雅也さんの事が朝日新聞のひと欄で紹介され、最近出版した山浦玄嗣著『ガリラヤのイェシュー」が好評である旨報道されていました。
 これは聖書の四福音書武家言葉、大名言葉、京言葉、大阪弁、山形庄内弁、津軽弁ケセン語・仙台弁、盛岡弁、名古屋弁、山口弁、鹿児島弁、長崎弁、関東やくざ言葉といった多彩な方言で、場面毎に使い分け山浦氏が作成したものです。方言を魅力に感じる人々には堪えられない画期的な翻訳と言えるでしょう。
 山浦氏は医者ですが、聖書の標準語による難解な訳に疑問を感じて、ギリシャ語・ヘブル語を猛勉強し、その成果をまずケセン語で訳し(*ヨハネ伝など)大好評を得ました。
 そして今回イー・ピックス出版社から新たに四つの福音書を全て、各方言で綴って一まとめにしました。福音を宣べ伝える者として是非読んでみたいと思い、2,520円をはたいて購入しました。そして今手元のギリシャ語聖書と比べながら読み進めています。実にうまいな〜と感心しているところです。
 しかし山浦氏がカトリックの信者であろう事は、仙台教区司教の方が推薦のことばを述べており、ローマ教皇枢機卿、大船渡教会の神父などに謝意を表している事から推察されますので、カトリックの教えるイエス・キリストや神の第三位格である「聖霊」に対して、どんな訳を与えているのか、よく注意しながら、教理的相違の現れる箇所を全て拾ってみようと思いました。カトリックはいわゆる三位一体の教理を受け入れ、父なる神、子なる神、聖霊なる神を、神として認めています。
 まず山浦氏の見るイエス像ですが、「序」において「主人公の名はイェシュー。職業は百姓大工。後に放浪のお呪い医術師兼説教師…これから物語るのは、これらの『お助けさま』たちの中にあって特にも風変わりな『お助けさま』、ガリラヤ出身の田舎者、一人の百姓大工の話である」と述べて、神からつかわされた「お助けさま」であっても、神とは述べていません。そして最後の「この福音書の翻訳について」の項において、「ローマ帝国の属領とされて呻吟していたユダヤ人たちの国の、ガリラヤ地方の片田舎、山村ナザレから一人の百姓大工が現われた。その名は…ガリラヤ訛りでイェシューという…僻村のしがない百姓大工だ。この男の世に出ての活動はわずかニ、三年、その生涯はどう見ても大失敗で、最後は政治犯としての濡れ衣を着せられて十字架上に刑死する。だが、不思議なことにこの男の短い人生が世界の歴史を変えた」と述べています。ここからは一見イエスを単なる人とだけ見ており、カトリック教義と外れるようです。
 確かに福音書でイエスを神であると直接言及した箇所は、ヨハネ20:28「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神』」(新改訳)位で、専ら福音書に続く書簡集においてです。では山浦氏はそこをどう訳したのか。「お、俺の旦那さまだ!お、俺の、か、神さまだ!」。確かにここでは神と正確に訳しています。
 そこで次に「聖霊」なる神の事を追ってみます。これは旧約・新約を通り、ヘブル語のルーアハ、ギリシャ語のプニューマ(共通するのは、霊、御霊だけでなく、「風」「息」などとも訳されること)が使用されています。
 マタイ3:16は三位一体の教理では大切な箇所で、「神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」(新改訳)とあります。しかし山浦氏は、「神さまの御息がソヨソヨと、まるで鳩のようにやさしく、我が方へと吹き下ろして来るのを感じなさった」と訳しています。
 それ以外にも全て福音書の「御霊」「聖霊」などの出て来る箇所を片っ端から調べて見ると、山浦氏は「風」「息吹」などと訳し一貫しています。それを見る限り、山浦氏は「御霊」「聖霊」という神を否定していると言われても仕方ありません。この点でカトリックとは大きく異なっています。
 もし事実とすると、この三位一体の神の働きで人は救われるわけですから、山浦氏の「信仰」が問われます。
 それはとにかくこの労作、一つの朗読劇として見るなら楽しめるでしょう。