ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

姦淫の疑いで石打ちの刑にされようとしているイラン人女性と聖書例

 7月20日のニューズウイーク誌電子版(http://www.newsweek.com/2010/07/20/8-other-pending-executions-in-iran.html)で、イラン人女性が姦淫の罪で石打ちの死刑にされそうだというニュースが載っていました。その女性の名はサキネ・モハマディ・アシュティアニで、これまでイラン北西部にある監獄で5年間拘留され、既に99回の鞭打ちの刑も受けています。
 しかしこの姦淫の罪は、拷問により自白を強制されたものとして、彼女はやっと最近ついた弁護士を通して世界に訴えたのでした。それは反響を呼んで、日本のサイトでも既に幾つかその事が報じられています。
 しかし国債世論がどうであれ、彼女の処刑は間近に迫っています。
 それを阻止出来るのは、イランの司法長官アヤトラ・サデク・ラリアーニという事ですが、その人の写真を見ますと、イラン人ながら、何だか聖書の学者・パリサイ人といったイメージです。そしてラリアーニは彼女の有罪を決めるのに、証拠に基づかせず「知恵」によるものだと報じられています。
 こうした報道記事を読みながら、すぐ思い出すのが聖書のヨハネ8にある記事です。
 ここでは実際姦淫の場で取り押さえられた女が、救い主イエス・キリストのみもとに連れて来られました。それをしたのが律法学者とかパリサイ人といった「モーセの律法」に通じていると言われている「偉い」人々でした。彼らはイエス様を試そうとしたのです。
 確かにモーセの律法では姦淫の罪は、石打ちによる処刑と決まっていました(申命22:22−24)。また鞭打ちも処刑に先立ち実行されました。
 救い主イエス・キリストは私たち自身の罪を負って十字架で処刑されましたが、その直前に鞭で打たれています。パウロも39回の鞭打ち刑を経験しました。そこでヨハネ8ですが、姦淫の女の処刑を決める権威は、当時のローマ帝国の司法官であって、イエスが処刑の決断をしたら、律法学者らはそれを非難するつもりでしたし、イエスが処刑を避ける決断をしたら、モーセの律法違反という事で、これまた非難しようという魂胆だったのです。
 イエスはその試みに屈したでしょうか?とんでもない!イエスこそここで絶妙な「知恵」を働かせられたのです。
 つまり彼女を取り囲んでいる人々に対して、イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(8:7)と言われたのです。そしてその後イエスはずっと沈黙しておられました。おそらく人々の心を探っておられたのだと思います。
 すると人々はイエスのみことばで自責の念にかられ、「年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」(8:9)のです。
 そこでイエスは女に問われました。「あなたを罪に定める者はいなかったのですか」と。彼女は答えて「だれもいません」と言いました。
 それを受けてイエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(8:11)と言われました。
 そのように救い主イエス・キリストを信じる人は、恵みにより罪は赦され、その後イエスに従う者と変えられます。
 イスラムの教典「コーラン」にはこうした恵みはありません。アシュティアニが赦されるのを祈るばかりです。