ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

政治屋松本龍は律法学者・パリサイ人々の類

 新聞報道などによれば、松本龍氏は復興基本法成立を受け、6月27日に復興相に就いたばかりです。そしてほぼ一週間後の7月3日、東日本大震災の被災地である岩手・宮城両県を訪ね、両県知事と会談しました。
 松本氏は1951年生まれ、中大法学部出身との事です。私と5年違いですが、その頃の中央ではもう学園闘争が終結に向かっていた頃でしょうか。当時学園闘争は社会の様々な闘争と連帯していましたから、私にも松本氏の出身母体である部落解放同盟なども参加していたような記憶があります。全国の戦う人々はそれこそ多様でしたが、大きく政治志向と、自らの闘争の中身を自己検証しつつ徹底的に追求してゆく方向に分かれていたように思います。そのうち政治闘争志向の人々は、頭も良かった分、かなり強烈なエリート意識があったように思います。だから闘争ごっこが終わった後、簡単に「転向」してしまい。しかもだいたい良いところへさっさと就職してしまう人々が多かったです。もし松本氏が闘争の余震の中で前者を志向していたとすれば、自分自身を知れではなく、政治圧力による金儲けに走ったとしても不思議ではありません。報道でも部落解放同盟のナンバーツーにして有数の資産家でもあるというのは、上記の推測にある程度根拠を与えていると思います。
 その松本氏が1990年当時の社会党から立候補して当選した後、政権が民主党に移ってから、2010年管内閣で初めて大臣の経験をし、その後も管内閣に留任していました。大臣にして資産家、ここに陥穽があったわけです。徐々に聖書でいう高慢という罪が松本氏の心の大半を占めるようになりました。
 ですから今回の岩手・宮城県の訪問と各知事との会見で、その罪が露呈してしまったわけです。報道によりますと、いろいろ妥当でない発言が続いたようですが、私が注目したのは、次の発言です。
 「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ。しっかりやれよ」。これが松本氏の本音であり、政治屋の政治やたるゆえんです。つまり国の大臣は地方の県の知事よりずっと偉い、自分の命令で動かしてみせる」という傲慢極まりない発言です。私がこれを書いている時、その一連の発言の反響があまりに大きかったせいか、遂に辞任に追い込まれたようです。当然の事です。私は貧困層でありながら被災しなかった分だけ、東北の全ての持ち物を失った人々との間に歴然たる格差が生じ、今後どうすべきか煩悶していたのに、松本氏は被災者たちの苦しみに対して全くノー天気であったとしか言いようがありません。そこで思いついたのが、聖書の律法学者・パリサイ人という、当時のユダヤ社会で指導的な地位にありながら、庶民を見下し、苦しめていた類の人々です。救い主イエス・キリストは彼らの事を厳しく叱責しておられました。
 「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。『律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです』」(マタイ23:1−7)。
 私は大学闘争でそれが自分の事だと実感し、信仰に入ってからも常に自戒しているみことばです。松本氏は大臣を辞めた後、このみことばを銘記してもらいたいものです。