ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

カミュの「ペスト」を読む

 カミュの代表作「異邦人」は学生時代に読んでいましたが、「ペスト」は初めてで、大東文化大学教授の中村君や小野君には又笑われるだろうな…。
 新潮社の活字の細かい360ページほどの文庫を懸命に読み終えました。
 内容はと言えば、冒頭にありますように、194*年、アルジェリアの要港オランで起きた「ペスト」という少々けたはずれの事件、そしてそれに立ち向かう医師ベルナール・リウーを中心とした人間模様を描いた仮想の小説です。最後はハッピー・エンドになっています。
 そこでカミュはこのペストという恐ろしい伝染病を通し、何を訴えたかったのか、それが何の象徴なのかという事が問題となり、いろいろ評論がなされています。カミュ自身は交通事故で若くして逝った為、彼の口からそれを確かめるすべはありません。
 新潮社のカバーの後ろには、ペストは暴力や不正、悪や抑圧を象徴しており、それを町の人々全体が連帯して反抗する様を描いたものと言っています。
 ウイキペディアの著者は「第二次世界大戦時のナチズムに対するフランス・レジスタンス運動のメタファー(*隠喩)」という説を紹介しています。
 ネットのサイトを見ますと、いろいろ解説がされており、いちいち尤もだと思わせるものがあります。訳者の宮崎氏は解説の中で、「『不条理の哲学』が初めて十全の具象的表現をもちえたもの」と言っています。
 では私はどう受け止めたか。文中にパヌルー神父が登場し、町へのペストの蔓延について、説教をしています。神父はカトリックの聖職者を表わし、牧師は一般にプロテスタントやバプテストが使用する聖職者です。勿論教義はかなり違います。勿論カミュも主人公の医師リウーも信仰は持っていません。
 ですから私はその説教箇所を何度も読み返しました。
 オランの町を襲い人々を監禁状態に置いたこのペストは、聖書で言えば心をかたくなにしてイスラエルの民をエジプトから去らせなかった王パロやその国の民に対して、神から送られた「うみの出る腫物」という災いや、「男が男と恥ずべきことを行なうようになっていた」ソドムの町全体に対して、神から送られた「硫黄の火」による全滅という災いと同等であり、民に対する「懲戒」の目的であったというメッセージは、なるほどと思わせるところがあります。しかしまた神は罪を行っていた大きな町ニネベ全体に対する滅びの警告を預言者ヨナを通して与えられた為、その民全体が荒布を着て灰の中に座り悔い改めた結果、町が滅ぼされなかった例もあります。全てが同一のパターンであるとは限らないのです。ですから説教者たる者は、聖書全体からおよそこうではないかと、祈って導かれるままに語るだけです。間違いだってあり得ます。パヌルー神父ももしかしたらそうだったかも知れません。ですから彼も最後にはペストらしき病で斃れてしまったとも言えます。
 オランの町全体がそのような罪深い人々の集まった所だったと示唆させるような箇所はありません。むしろ「善良な人々」が多くいたのでしょう。ですからカミュは、その町を突然襲ったペストが人々を次々と殺して行くのは、全く「不条理なこと」と捕らえ、パヌルー神父のメッセージに反対のリウー医師を立てて、この不条理に立ち向かわせたのでしょう。結果としてペストの災禍は終息しました。しかしリユーはこのペストの本の終わりで「おそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを品背に差向ける日が来るであろう」と「予言」しています。
 不条理は人間中心主義(ヒューマニズム)から出た事であり、神のみこころは全く別です。聖書全体から見る限り、いつか神はその恩寵の時を怒りに変え、背信の地球人を滅ぼす「終わりの日」を到来させられるでしょう。世界中の人々を不幸に陥れているグローバル経済はそれを加速させているようにも見えます。