ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

尖閣諸島沖事件解決の困難さと、仲立ちの不在

 9月24日尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件は、中国側からすればその逆であると主張しており、且つ尖閣諸島は中国の領土であるので、漁船長を逮捕したのは不当であると抗議を続けています。
 最初に新聞で事件の経緯を知った時は、私としては中国漁船は逃げるつもりで巡視船に故意にぶつけたと思っていました。しかし広い海での出来事です。日本の巡視船がその事実を正確に把握しているのかどうか私には分かりません。中国側の主張はひょっとすれば正しいのかなとも思いました。
 それより難しいのは、中国側が尖閣諸島は自国の領土であると主張している点にあります。また台湾もそう主張していますから、問題はややこしいです。
 一方日本側はどう考えているのかと言いますと、外務省のサイトでは尖閣諸島が1885年以降の調査で全て無人島であり、当時の清国の支配が及んでいない事を慎重に見極めて、1895年に日本の領土として編入したと書かれています。
 1945年日本が第二次世界大戦で敗北した後、7年経過して成立したサンフランシスコ平和条約では、尖閣諸島が米国の施政下に置かれ、1971年の沖縄返還協定では、この尖閣諸島も日本に返還された、という事を外務省は書き記しています。その頃までは中国は自国領土と主張していなかったようです。
 しかしここに来て突然とも言える中国側の領土権主張は、この列島周辺が中国に近い「資源の宝庫」でもあるからでしょう。
 この問題を憂慮するサイトが、タイム誌電子版やニューヨークタイムズなどにも出て来ています。
 米国が仲立ちになって深刻化しているこの問題の打開に一役買う用意もあるようですが、今は静観している感じです。その為に中国側の厳しい措置がエスカレートしているようなので、ますます正常な関係を取り戻すには時間がかかりそうです。
 私はバプテスト教会に所属し、政治と宗教の分離を明確に打ち出していますから、これ以上の政治的な問題に深入りしません。それに上記内容にも間違いがあるかも知れません。
 では何が言いたいのかという事ですが、中国・日本の対立を良く考え、両者をなだめて再び和平の回復に向かわせる真の「仲立ち」が不在である事です。
 私は現在様子見の米国が両者の間を取り持つ力があるとは思えません。このまま突っ走ると日米安保条約の出番にもなりそうな気配だからです。
 現在の地球規模の経済体制下では、人間の持つ金への制限なき欲望というものが突出してきます。
 「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」(ヨハネ第一2:18)。
 「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります「(テモテ第一6:9)。
 それこそ聖書では「罪」であり、完全に聖であり義である神と人間を隔てているのです。そのままでは両者の間は険悪になる一方で、人間の側の破滅が待ち構えています。しかしその事態を憂えて、神は両者を取り持つ仲介者を世に遣わして下さいました。人のかたちをとった神イエス・キリストです。
 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(テモテ第一2:5)。
 この真の仲立ちであるキリストにより、両者の間に「平和」が成立しました。「キリストこそ私たちの平和であり…」(エペソ2:14)。
 今の中国と日本の問題ではこの真の仲立ちが登場される余地はありません。ですから今後一応の解決が得られても、両者に不満は残り、真の平和は実現しないはずです。