ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

中川恵一氏の『がんのひみつ』に続き、『死を忘れた日本人』を読む

 5月29日のブログで東大医学部放射線科准教授中川恵一氏の『がんのひみつ』を取り上げましたが、今回新たに近刊の『死を忘れた日本人』を読みました。
 ところが何だか読みにくいです。どうしてかと考えて見たら、左ページの端にポイントいくつとあって、そこは見出しが大きな太文字で書かれていますが、これが一つの文章の区切りとなっていないからです。ですから読みにくいです。
 そして私が期待したのは本の題から、中川先生が豊富な臨床例からその事を深く掘り下げているのではないかと思ったからです。しかし通読してみて、ちょっと期待はずれでした。
 この書物を読めば中川氏が進化論者である事は明白です。目次を見ますとその3で、「進化の中で、『死が生まれた…』」という章がある事から分かります。この点では最近取り上げた原核生物と真核生物に関わる事ですが、原核生物(主に細菌の仲間)は無性生殖で同じ細胞しか複製出来ないので、そこに死というものは存在しません。ところが「進化」の過程で生まれた真核生物は有性生殖を実現しましたが、その代償として無限に細胞分裂をする事が出来なくなり、死というものが入って来た、つまり寿命に限りが生じたという事になります。そして真核生物の染色体の末端を見ますと、テロメアという構造が存在し、細胞分裂と共にそれが短くなって行きます。これ以上短くならないという段階に達すると、細胞分裂は止り、死が訪れます。人間の場合それがために、最大寿命は120歳と言われています。この歳は聖書でも出て来るものです。
 ですから中川先生はその見地から、人間の寿命に限りがあるという事を常々強調しているわけです。
 ところが日本人は特にこの死というものが日常生活から完全に隠されてしまいました。かつて自宅で家族が集まって死を看取るという事がほとんど無くなり、死は身近なものでなくなり、ほとんどの人が家とは隔離されて病院で85パーセント死を迎える事態になったそうです。その為西欧でよく言われるメメント・モリ(=死を覚えよ)は、日本では全く銘記されるべき言葉のうちに入らなくなり、誰もが「死なないつもり」で生きている、と中川先生は嘆いています。
 その日本人の理想とする死に方は、いわゆる「ピンピンコロリ」であって、もし「がん」になってしまうと、その理想は実現せず、死の瞬間までその恐怖と戦わなければならなくなりました。
 中川先生は「がん」の専門家です。現在がんは緩和ケアが進んで痛みがとれるようになっていますから、がん患者はもっと「死の恐怖」と向かい合う事になります。そういう死に方が良いのかと中川先生は問うています。そして先生自身は、がんによる死は突然ではないので、いろいろ人生の整理が出来る、痛みが緩和された分かえって穏やかにそれと向き合えるから、がんで死にたいと言っています。
 それから進んで先生は日本人の間で宗教が衰弱している為、「死を受容出来ない」事態を非常に憂え、この本でも進化の過程で生まれたとされる宗教を大いに紹介しています。私はその先生の姿勢が好きなのですが、取り上げた宗教が多岐にわたり、キリスト教では解釈のミスも見受けられます。
 例えば有名なヨハネ伝のはじめの部分「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)で、「言葉が神を生み出したことは、聖書そのものも認めています」と言っているのは間違いです。このことばとは神であり、救い主であるイエス・キリストを指しているからです。
 そのキリストが人のかたちをとって世に来られたのは、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:15)。創造論では人は最初ひじょうに良いものとして造られたにも関わらず、神に背いて堕落し、その結果として死が世に入った事を聖書から強調しています。しかしその死の奴隷となっていた人々は、この救い主イエス・キリストを信じる事により、永遠のいのちが与えられ、穏やかに死を全うして天国に召されて行く事が可能になりました。
 ですから進化論の中川先生と私は立場が異なりますが、「宗教」が死の受容の為必須であるという主張には大いに共感するところがあります。その事をこの本から学びました。