ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

梅棹忠夫著『文明の生態史観』を再読する

 今年7月亡くなった梅棹忠夫氏に関連して思い出した代表的著書『文明の生態史観』を再読して見ました。私はその題のかっこよさに惹かれてハードカバーの本を買ったように記憶しています。ところがその当時はあまりよく読みませんでした。引越しを重ねるうちに、いつしかその本も廃棄してしまったので、今回もう一度読んでみようと、図書館から借りた次第です。
 この本は1957年、初めて雑誌中央公論に載ったという事ですから、随分古い話です。そこには有名なトインビーの『歴史の研究』の事も触れられていますが、その簡略版がやはり中央公論社の世界の名著シリーズで出ており、そちらのほうは熱心に読んだ覚えがあります。
 梅棹氏はそれに刺激されて、そこに書かれている間違いを正す事を含め、この本を書いたのでしょう。それには梅棹氏のアフガニスタンやインドへの旅行体験が大いに役立っています。
 氏はこれまで東洋という名で十把一からげにされていた国々を、生態学的見地から第一、第二地域に分けて、さらにその中を細分するという手法で、歴史的に描き出した為、その斬新さが受けてよく売れたのでしょう。
 特に第一地域に属する日本を「高度文明国」と位置づけ、その内容を掘り下げていますが、何分書かれた時期が古く、氏は現在の「落日日本」など当時は予想もしなかった事でしょうし、第二地域の中国やインドの現在の発展、アフガンの過激な宗教一派による闘争なども想像出来なかった事でしょう。その意味でこの本は確かに古くなっています。しかし「生態史観」という言葉は、後代にも引き継がれているようです。
 それはとにかく、この中公文庫の最後に収められている「比較宗教論への方法論的おぼえがき」には、全く賛同出来ない箇所があります。それは氏の進化論的立場に起因しています。
 氏はその論文の中で繰り返し「いったいどういうわけで、こんなもの(*宗教)が発生したのか」と問うています。そして全く分からないまま、生態学的観点から、比較宗教生態学を論じています。これは意味のない事です。ですからこの章の中に出て来る「疫学アナロジー」とか「ベナーレス(*ガンジス川のほとりにあり、仏教の発生地と見られます)とイェルサレム」とか「方法と仮説」などといった考察は、極めて恣意的なものです。
 たとえば「ユダヤ教キリスト教イスラーム教という…三つの段階の推移があったとして」と述べ、それらをバラモン教、仏教、ヒンドゥー教の推移と対応させていますが、そこに何か意義があるのでしょうか。また推移があったとしてと言っていますが、実際宗教は神主導によるユダヤ教に始まり、時至って救い主イエス・キリストが来られてキリスト教として発展し、6世紀にムハンマドが現れてイスラム教として「別途に発展して」今日に至っています。ユダヤ教キリスト教は現在でも分かれた宗教として健在であり、イスラム教も勢力を伸ばしています。しかし聖書を見ればやがてユダヤ教はキリスト統治により解消し、基本的には両者に「敵対する」イスラム教も無くなる事になっています。それらは聖書をよく読めば、そして文字通りに受け取れば理解出来る事です。
 興味深い『文明の生態史観』の最後に、進化論では全くわけの分からない宗教を生態学的に挿入した為、中公文庫版では有終の美を飾れなかったと言ったら、言い過ぎでしょうか。