ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

和暦と西暦

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです」(Ⅰペテロ1:24-25)

 古川日出男という作家は、福島県郡山市出身で、地元の新聞ではよく登場するので、その名前を知っている人も多いと思う。

 19年4月16日、福島民報に連載中の記事に目が留まった。題は「和暦で時代問い直す」である。

 古川氏が原稿を書き始めたのは2015年の4月だという。「普段から西暦でモノを考えている」から、それが4年前というのはすぐ分かる。それを平成27年と言われると、即座には思い出せないそうだ。

 私も全くその通りで、生まれてから1989年の54歳になるまでは、昭和という和暦でも問題はなかった。しかし平成に変わってからは、多少認知症もあるのだと思うが、西暦と和暦の換算が出来なくなった。幼少の時から多感な青年時代までは、和暦のほうが、その時々の事を思い出すのに苦労しなかったから、馴染みがあった。

 2011年といえば、原発事故のあった年だが、それを和暦で言ってみよと言われても、手帳でも見ない限り、平成23年とは分からない。ゆえに昭和の時代の出来事は、和暦でも西暦でも両刀遣いが出来るが、平成の時代になってからは、それが出来ないから、完全に西暦で何事も覚えるようにしている。

 だからそこへまた和暦が変わると言っても、全然関心がない。

 古川氏も触れているが、西暦とは「イエス・キリストが生誕したとされる年」を紀元元年としている。紀元後何年というのはADで表す。ラテン語のanno Domini(=主の年に)から採択している。それに対して紀元前何年というのはBCで表し、英語でbefore Christ(=キリスト以前)となる。実際には聖書に登場するヘロデ王の時代の終わり頃、つまり紀元前4年頃というのが定説になっている。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った」(マタイ2:1)。

 それを考える時、古川氏が「元号はもちろんだけれども西暦だって宗教的なのだ」と言うのは正しい。私たち信徒にとっては、それはただの数字の羅列ではない。

 しかし古川氏はそうであるからこそ、和暦で時代を問い直すのは必要だと考える。昭和という過酷な戦争のあった時代を生きて来た体験者なら、それも一理あると思う。

 けれども古川氏が、それほどまでに西暦が日本人の間で浸透しているからには、決してキリスト教徒は少数派ではない、と推論するのには異を唱える。

 確かに4月21日行われたイースターの記念礼拝は、何それ?と思う人が大半だろう。でもクリスマスは皆でお祝いをするではないかと氏は言うが、人口1パーセント以下のキリスト教徒の見方では、その途方もない意義を分かっている未信徒は極めて少数だと確信する。模倣の得意な日本人のなせるわざだ。良い例としてXマスという表記がある。キリストの礼拝ではなく、未知の男の祝い?という、奇妙な祭りを表す造語である。

 だから伝統的な仏教や神道などに囲まれた日本人の一家庭で、誰か若い人(例外もあるが)がキリスト教を信じると言ったら、反対されるのは当然だ。それは古川氏の想像ではない。その宗教からキリスト教に変わった人々の証の多くは、その大変な問題に触れている。例外は牧師家庭の子だったとか、家が代々にわたる信徒だったという事例であろう。

 新元号に相当な人の関心が集まっているが、古川氏は様々な意見の中に「今後は西暦中心に日本の社会は進むと思う」という発言があった事を注目している。私としてはそれを望む。役所だって商売する人だって、元号が変わる事で厖大な経費がかかるだろう。消費税増税の騒ぎでもそれがすぐ理解出来る。無駄使いは避けるべきだ。