ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ノーベル賞受賞者たちの壇上の一つの空席

 今年のノーベル賞授賞式は日本人の二人が化学賞を得た事で注目されていますが、もう一つ壇上で本来座るべき平和賞の受賞者が自国の獄中にいて、空席になってしまった事でも話題となっています。
 その人の名は劉暁波氏、中国での言論・宗教の自由を求めて投獄されている平和活動家です。
 新聞の写真を見ますと、本来その劉氏が座るべき席には受賞証書とメダルの入った箱だけが写っていました。このような事態は1930年代、戦争が続いた時以来だったと言われています。表現の自由を掲げる国々は概して中国を批判していますが、表立った批判を避けている国々もあります。
 一方中国政府は激しく反発し、これは政治的茶番劇であると手厳しく非難しています。けれどもこの式では劉氏の書いた文章が代読されています。これはどういうルートによったのでしょうか。内容はなかなか優れています。
 「言論の自由を封殺することは人権を踏みにじることであり、人間らしさを窒息させることであり、真理を抑圧することである」。
 かつて救い主イエス・キリストは、御父から受けた審理のみことばを宣べ伝えておられた為、アブラハムの子孫を自認するユダヤ人たちの迫害を受けていのちを狙われました。
 「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです」(ヨハネ8:40)。キリストは真理に最後まで忠実であられました。
 そのキリストが十字架刑の時、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と言われました。キリストは御自分の敵を赦すよう、執り成しの祈りをされました。
 今劉氏も「私には敵はおらず、憎しみもない。私を監視、逮捕した警察も検察も、判事も誰も敵ではないのだ」と延べ、最後に「私がしてきたことは罪ではない。罪の問われても、恨みはない」と断言しています。中国政府の非難とは全く対照的であり、自分を迫害している者たちを赦す態度は、まさにキリストを思わせるようなところがあります。
 かつてキリストは婚礼の式典に招かれていながら、礼服を着ないで来た一人の者の厳しい処罰を命じられました(マタイ22:11−13)。この礼服を着ていなかったのは勿論未信徒でした。ですから式典にふさわしくありませんでした。
 しかしノーベル平和賞授賞式での空席は、出席して座るべき人がそれにふさわしい事を誰でも知っています。