ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

伴侶の死別を語る事によって癒されるという事実と聖書

 12月15日の朝日新聞の「ハグ」というコラムに「伴侶と死別語って癒やす」という題の記事がありました。
 ここに紹介されているのは、若くして事故や病、自殺などで妻や夫に先立たれた人々の自助グループ「グッドグリーフ・ネットワーク」です。
 ここのスタッフの女性の事例は典型的な癒やしです。30代で夫を事故で失いました。子どもが2人、3歳と1歳でした。その為母親は幼い二人の為にも気丈に頑張り、「しっかりしなくては」と、出来るだけ明るく振る舞っていました。しかしそういうケースが一番危ないのです。愛する夫がもういないのに、悲嘆を隠してしまうのは、「世間体」を気にする日本人の悪い性癖です。必ずいつか破綻してしまいます。
 この母親も子どもたちの可塑的な脳の想像力を誤解し、異常だと思って精神科に連れて行ったそうですが、おそらく医者は母親こそ異常であると諭したのではないでしょうか。それに気付いた母親は、夫の死から半年後、死別体験者が語り合う会に出席、つらい体験を始めて涙と共に語り始めました。
 私自身もそうした会に出席した事があります。そこに居た人々は皆、死別体験者たちの言葉を傾聴し、その号泣の涙をしっかり受け止めてくれました。
 それが大切です。そこに辛かったのは自分だけではないという体験を互いに共有する意識が生まれ、その人は徐々に癒やされて行きます。
 ですから死別体験をした人は、気の済むまで大いに嘆き悲しむべきです。取り繕っているうちに「鬱」となり、挙句の果てには自分も伴侶のいるところへ行きたいなどと追い込まれてしまう事もあるからです。
 その点聖書で見る限り、ユダヤの人々は死別の涙を大いにこぼし、「弔いの歌」を歌って共に嘆き悲しむ人々さえいました。
 「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった」(マタイ11:17)。
 「サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた」(創世23:2)。
 「ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした」(創世49:33、50:1)。
 私は聖書で救い主イエス・キリストの十字架上の死を読みます。ふだんその場面で涙を流す事はありませんが、バッハのマタイ受難曲の終楽章を聴き終えた時、しばしば拍手の前の沈黙の中で涙がぼろぼろこぼれてしまいます。
 とにかく愛する伴侶の死では思い切り泣く事と、その辛い経験を分かち合う会で語る事が極めて大切です。それによって悲しみは続いても、癒やしは確実に進展してゆきます。