ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

目は生きている顔と人形の死んだ顔を識別する事が出来るが、霊的洞察力はどうか

 米国心理科学誌12月21日号電子版に「顔が生きているのを識別するのは?目である」といった意味の論文が載りました。それをフィズオルグサイト(英文)で見て行きます。
 ダートマス大学のタリア・ウィートリー氏とクリスティン・ルーサー氏は、面白い実験をしました。モーフィング(=ある画像を別の画像に滑らかに変化させるグラフィック処理技術。たとえば、人間の姿を動物に変化させるなど)のソフトウエアを使って、ボランテアたちに人形の顔と人間の生きた顔とを識別させる実験を行いました。このモーフィング・ソフトウエアはペアになったその二つのものを連続的に変化させる事が出来るので、一部は人形、一部は人間として映る事になります。
 その結果、ボランティアたちは連続的に動く画面から的確に人形の顔と生きた人間の顔を識別する事が出来たそうです。しかもそれを識別する箇所が目である事が判明しました。幾ら人間に似た人形であっても、被験者は目でもって、ちゃんと違いが分かるという事です。社会的「活動力」の蓄積があるから、考え、感じ、互いに交流し合う事の出来る顔を、識別出来るのだそうです、最後にタリア・ウィートリー氏は「私たちは皆他人との結び付きを求めていると思うので、顔にいのちがあると認識する時、それこそ自分が結び付く事の出来る精神の所有者としての人間なのだ」と述べています。
 この論文を見てすぐ思い出す聖書箇所があります。
 「彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない」(イザヤ44:18)。
 これはイスラエルが生きた神への礼拝を捨てて、木で作った偶像(これが上記論文の人形に相当)を拝んでいた事に対する、主なる神の非難です。神に背を向けた彼らは、上記ボランティアのような、生ける人格神をその目で正しく認識する事が出来なかったのです。逆に彼らの肉の目は、死んだ偶像をいち早く認識し、それを喜んで崇拝しました。
 それを考えると偶像礼拝の盛んな日本では、生ける神との結び付きを求める「霊的な目」は皆無に近い状態です。
 木や金属で作った像をあたかも生きているかの如く敬う日本人は、「主はまことの神、生ける神、とこしえの王」(エレミヤ10:10)と言われる生きて働かれる神への畏れが全くありません。
 イスラエルがその為に裁かれたように、私たち日本人もいつか裁かれる時が来ます。上記論文から自分は人形と生きた人間を区別出来ると自負しているあなたへ。「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3:18)。