ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

詩人中村稔氏の晩年

 2月24日の朝日新聞に84歳を迎えた詩人中村稔氏の晩年の生き方が紹介されていました。
 中村氏が著名な詩人である事は知っていましたが、まだその著作を読んだ事がありません。出来るだけ早く図書館で借りて読みたいと思っていますが、最近の作品は検索しても出て来ません。氏は昭和19年戦争が激化している最中に一高に入った人です。戦後東大法学部を卒業しましたが、弁護士としても活躍していたとは知りませんでしたが、戦後になってから詩作に励み、二足のわらじをはいて来た事になります。ちょうど加藤周一氏が医学部を出ながら、評論家としても活躍して来たようにです。
 新聞報道によると、中村氏は2000年に亡くなられた妻和子さんの事が衝撃的だったようです。その為近年の作品の中にも和子さんの死の事が影を落としているそうです。死後11年経てもまだそれが忘れられないという事実は、中村氏がいかに奥様の事を愛していたかという証でもあります。その寂寥感は私の想像を越えます。
 記事の中に和子さんが病院で亡くなった時の晩の事を考えていると記されていました。そしてそれについての詩作の構想を作りあぐねているようです。
 それはなぜか?「病院で死ぬと、遺体は厳寒から出してもらえない。汚辱にまみれた生から抜け出し、清浄なものとなったのに、死者は不浄なものとして、裏門からこっそり出てゆかねばならない。この不条理を、詩にできないものだろうか」とあるからです。
 旧約聖書モーセの律法によれば、確かに死者は不浄なものと扱われていました。
 「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる」(民数19:11)。
 しかし主である神を信じた人の霊は、シェオルと呼ばれるところで清浄なものとして、メシヤ=救い主であるイエス・キリストを待ち望む事が出来ました。
 新約聖書の時代、この儀式的律法は廃棄されたものと考えるべきです。救い主イエス・キリストが来られた時、会堂管理者の娘の死体に触れて生き返らせられました。キリストが私たち罪に汚れた者に代わって十字架にかけられ、その罪を負って死んで下さった後、その十字架からの取り降ろしをしたのは、有力な議員であったアリマタヤのヨセフでした。イエスの弟子であったタビタが病死した時、人々はその遺体を洗って、屋上の間に安置しました。
 これらを見ても、遺体はやがて朽ち果てるものではありましたが、それに触れる事は不浄などとどこにも書かれていませんし、信徒たちは丁寧に遺体を取り扱っています。勿論その霊は汚辱にまみれた朽ちる身体を離れ、天国にあって全く聖いものとされました。そして信徒=聖徒は朽ちない聖なる身体が与えられるのを待っています。
 従って中村氏が病院は正門から病人を受け入れるのに、死んでからは裏門から出すという事に不条理さを感じたのも当然と言えます。病院はその悪しき慣行を止め、堂々と死者を正門から出してあげるべきでしょう。