ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

それでも日本人は「原子力」を選んだ

 6月30日のブログで加藤陽子佐高信共著『戦争と日本人』について、少し触れました。この本の序章で佐高氏が加藤氏の書いた『それでも日本人は「戦争」を選んだ』に言及していました。
 佐高氏はそこで「何かにつけ責任の所在をどこかに押しつけて他人事にしたがる日本人にたいする、強烈なテーゼを感じました」と言っています。この場合のテーゼとは「主張」という意味合いでしょう。確かに太平洋戦争の末期、「日本人全体が戦争に参加せざるを得ない総力戦」になりました。私の父は横須賀の海軍へ応召、母は東京杉並の家を守り「銃後の備え」をしており、B29が墜落し搭乗員が落下傘で降下した時、付近の人々がよってたかって殺し埋めてしまうのに「加担」した事を、幼い私に語ってくれました。
 でも戦後になり、太平洋戦争に関わった日本人のうち相当数が「戦争の犠牲者だった」という意識を持ち続けて来ました。そこで国策の決定を行なったのが当時の東条内閣ら為政者であったのは間違いないにしても、日本人全体を主語とした場合、なぜ戦争への道を選び、しかもなぜその事に対する「個」としての当事者意識が希薄なのか、という問題意識で加藤氏は書いたわけです、私も実はそれに関心を抱いていた為、今度の東日本大震災における福島第一原発の事故に関して、「個」としての私はどう考えるのか明確にしておく必要を感じていました。
 そんな時4月5日私の高校の1年先輩である池澤夏樹氏が朝日新聞のコラムで、「政府や東電に対してみんな言いたいことはたくさんあるだろう…事前に彼らを選んでおいたのは我々だから…今の日本にはこの事態への責任の外にいる者はいない。我々は選挙で議員を選び、原発の電気を使ってきた…」と書いていたを見て、上記加藤氏の著作の題を借りるなら、「それでも日本人は『原子力』を選んだ」という事になるのだろうかといぶかっていました。
 一方6月29日の朝日文芸時評欄では、文芸評論家の斉藤美奈子氏が、先月「『文学者の原発責任』だって発生しよう」と書いた内容に対して、正体不明の執筆者が雑誌『文学界』で批判した事を取り上げています。
 その正体不明の人が書いた斉藤氏への批判内容が、まさに上記加藤氏の問題意識に似ていました。即ち「戦争責任を軍国主義者に押し付け、国民はだまされた被害者という戦後の図式と酷似している…原発が危険だという情報は溢れていたのに『多くの人々は楽観視し、スルーしたのだ。そのことを自らの問題として考えないのは誠実ではない」。
 それに対して斉藤氏は自分に責任がないとは思っていないと断った上で、こう反論しています。「『自らの責任を問うことこそ誠実』とする相馬悠々の意見は『敗戦の責任は国民に等しくある』とした敗戦直後の『一億総懺悔』を思い出させる。それも『いつか来た道』じゃないのか。『責任』は自分にも問うけど外にも問わなければならない。そこを曖昧にしたら私たちはまた同じ轍を踏むことになる。だからみんな、それぞれの場所で格闘しているんでしょうが」。
 私も金輪際自分に責任はないとは言いませんが、それを前面に出したら、全く無茶苦茶な事をやっている東電や政府の責任が曖昧になってしまうと考えます。私は悔い改めて神を信じた者の一人として、「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ13:5)という厳しい救い主のみことばを宣べ伝え続けなければなりません。
 「それでも日本人は『原子力』を選んだ」ことで、自己責任ばかり追及していては、世界中に放射物質をばら撒き、それこそ「国益」を損ねながら、真摯な「懺悔」をせず、保身ばかりはかっている東電・政府の幹部連中(東条英機に似ています)を「ほくそ笑ませる」だけではないですか。