ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

国会の事故調査委員会英語版への批判

 2012年7月12日の朝日新聞では、「原発事故、文化のせい? 国会報告書に海外から批判」という題で記事が書かれていました。
 国会報告書とは国会の事故調査委員会黒川清委員長)による報告書の事です。朝日報道にもありましたが、そこでは厳しい規制当局や政府への批判と東電批判があって、明確に人災と認定されましたが、その膨大な量の報告書(641ページ)には英語版も付いており、それには「根本原因は日本に染みついた習慣や文化にある」などと記されていた為、「事故の本質を見誤らせる」との海外の批判があった事を記しています(*英文PDFファイル:http://naiic.go.jp/wp-content/uploads/2012/07/NAIIC_report_lo_res4.pdfにある「委員長からのメッセージ」の15〜20行に問題の箇所があります)。

 そこでこの記事に出ていた米国ブルームバーグ通信サイト(http://www.bloomberg.com/news/2012-07-08/japan-s-nuke-report-undercuts-itself-with-cultural-copout.html)と、コロンビア大学教授ジェラルド・カーティス教授が英国のフィナンシャル・タイムズに投稿した文章(http://www.columbia.edu/cu/news/clips/2011a/07a/StopFT.pdf)を調べてみました。
 ブルームバーグサイトでは「日本の不満足な原発報告」という題になっていて、7月9日に編集局が記していました。
 そこではこの事故が気まぐれな自然の行為ではなく、人間による失敗の見本のようなものだと指摘した上で、この報告書は誰が(日本なので女性はそう多くいないでしょうが)失敗したのかを特定していない、と明確に指摘しています。日本に染み付いた文化が原因であるなら、個々の犯人を窮地から救う事になってしまうと手厳しいです。告訴や刑罰の忌避となってしまうからです。
 そして津波に先立つ地震が原子炉の一つを不能にし、さらに東電が地震による炉の損傷を防御する改修工事を怠った事を踏まえ、一週間前に大飯原発3号機を再稼動したのは時期尚早だったと批判しています。そこではストレステストにパスしても、マグニチュード9の地震に対して持ちこたえる事は出来ないのです。また集団主義」体制下で、他の日本人が責任ある地位に就いたとしても、同じ結果だった可能性は高いとする「委員長からのメッセージ」に対し、ひどく劣ったものだと酷評しています。
 一方コロンビア大学教授ジェラルド・カーティス氏は、「フクシマを日本の文化のせいにするのはやめよう」という題で、論文を寄せています。教授はこの報告書を一通り読んだ上で、誰が責めを負うべきかについて、頁を通しで探してみても無駄だったと言っています。
 また当時の管首相が東電本社に乗り込んでその権限を行使しなかったら、事態はさらに悪化していただろうとも言っていますし、驚くべき事に東電は海水注入により、ほとんど不可能な原子炉の再開も当初目論んでいたとも指摘しています。そしてもし文化で行動が説明出来るなら、誰も責任をとる必要はなくなる、と厳しく言っています。最後に教授は「そういうなら、リーマン・ショック金融危機アメリカ文化のせいだ、というのと同じだ」と述べて論考を閉じています。
 とにかく究極の原因は文化ではなく、関わった多数の人々の個人的な選択が責任を問われます。
 聖書でも個々人の責任が問われています。集団や文化などではありません。
 「しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う」(エゼキエル33:6)。
 津波災害と違い、原発事故が人災という結論が出ているのに、いまだ東電首脳でその罪を認めた人はいません。上の聖句で見張り人を東電、剣を地震とすると、それとの関連で被曝死や自殺などが起きたら、必ず東電トップの責任が問われます。