ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

『思想としての3・11』を読んで思った事

 あの東日本大震災以来、被災地情報や刊行された本を読み続け、キリスト者としてどうすべきか考えて来ました。特に原発事故は人災として加害者側を糾弾し、被害者側を擁護する発言位しか発信出来ません(現況で身体の弱い私はボランティア活動が出来ないので、いずれ心のケアなどで現地を訪れ手助けしたいと思っています)。但しそれは聖書でどう言っているのかが基準です。所得分布中央値の2分の1を遥かに下回る貧困層でありながら、今度の震災で家や財産を全て失った人々と比べれれば、まだ寝て食べてだけでも生活出来ているので、そこにも大きな較差が生じ、一個の人間として軽々に言うべき言葉はありません。
 大学の頃放射性元素半減期といった物理的な問題は多少頭に入っており、茨城県に居た時、東海村の臨界を身近に経験し、且つ原研大洗・原研東海など車でよく脇を通り、小さな事故のうわさを聞いていた事もあって、原発は怖いというイメージは持っていました。しかし原発廃止といったところまで踏み込んで運動出来なかったので、責任の一端が自分にもあるのは間違いありません。
 しかし言葉を慎重に選び、分かりやすく伝える(被災者にも良く分かるように)という点では、上記の本は失格だと思いました。17人以上の著者が書いていますが、比較的若い批評家や哲学者たちが多いです。題に「思想」という言葉が入っているので、そうした人たちは一歩踏み込んでいるのでしょうが、難しい言葉を噛み砕いて誰でも良く分かるように平易な言葉を連ねるという事が苦手のようです。この深刻な問題を被災者と共有するにはあまりに難し過ぎて、自分はこんな高尚な言葉を繰る事が出来るといった、一種の優越感みたいなものを感じ、だいたいは斜め読みで終わらせてしまいました。
 その中で2つほど思った事を書いてみます。
 今度の大震災では他人を助け、自分がいのちを落とすといった事例が多くありました。警察官、消防隊その他の人々です。それに対して自分が死んでしまっては何にもならないという事がよく言われました。本書の立岩真也氏が触れています。勿論自己を犠牲に人を救ったのは称賛に値する事です。しかし立岩氏はそれを踏まえた上で「『人を救うのはよいことだが、しかしそれは自分の命まで失ってしなければならないことではない』と言うしかないのだと思う」と言っています。阪神大震災の時「トリアージ」という言葉が出ました。怪我の度合いにより治療の優先度を決めるという事ですが、その頃からどちらを優先するのかずっと考えて来ましたが、やはり結論としては立岩氏の言われる通りだと思います。
 もう一つ。佐々木中氏の言葉です。「こうした原発事故の状況や情報を『隠蔽』したり『秘匿』したりする人は、そうすることによって『自分が一体何をやっているのか』が判っていないのです。一番大事なことが判っていない。把握できていない…」。
 これがこの本を読んで得た最大の収穫でしょうか。まさに東電・政府・官僚たちは原発事故の処理・放射性廃棄物の禍根のない処理など、まるで判っていなかったのに、俺は何でもわかっていると豪語しています。「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。」と言っています。あなたがたの罪は残るのです』」(ヨハネ9:41)。
 この二人の思想から聖書の救い主の事を伝えて終わります。
 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした」(ペテロ第一3:18)。キリストは自ら進んで、全世界の人々を救う為に十字架でいのちを捧げられました。そして…。
 「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』」(ルカ23:34)。今度の原発事故の加害者たちの「罪」をも救い主は赦す為に、天で執り成しの祈りをしておられます。計り知れないイエスの自己犠牲の重みと意義を是非考えて下さい。