ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

哲学者森岡正博氏の「誘惑に負けない」という事は可能なのか

 2011年8月15日の朝日新聞では、哲学者森岡正博氏が「生きるレッスン」欄の中で、「誘惑に負けない」という事を取り上げています。
 その中で森岡さんは「なぜ人間は誘惑に負けそうになるのか。それは、人間に欲望が備わっているからです」と言っています。さらに「欲望を持つのは、けっして悪いことではありません。欲望は人間を生き生きさせますし、明日に向かってがんばろうという原動力にもなります」と続けています。
 私は森岡さんが聖書を踏まえてその事を言ったのかどうか分かりません。しかし聖書にも既に同じような事が書かれており、特に森岡さんが「思索の末に」たどり着いた結果ではありません。
 聖書にはこの「欲望」については例も比較的多く、人間創造の時点から生得のものとして備わっていたのかどうかは、明確な箇所がない為断言出来ませんが、エデンの園でのアダムとエバの暮らしぶりから見ると、最初から人生の基本的な資質であったと考えられます。創造のはじめから神は二人を食欲と性欲という基本的な欲望を備えて造られた事でしょう。ですから欲望はそれ自体良いもの、悪いものというように分けられるものではありません(ベーカー社の聖書百科事典を参照しました)。大切な倫理的問題は、人が自分の欲望に対してどう応答するかという事です。欲望を制御し、神の定められた目的を果たす為に欲望を用いる事は可能です。
 そして次に誘惑論になると、森岡さんは聖書の見解と異なる展開をしています。つまり誘惑には二種類あって、気持ちのいいことを味わってみたくない?と誘ってくる誘惑と、未知の世界を覗き込んでみたくない?と誘ってくる誘惑です。そのうち後者のほうに「非」がありそうです。例として性愛の冒険や、年齢的に許されないことへの誘惑が挙げられています。俗にいう「不倫の世界」が想定されます。
 そこで森岡さんは「法の範囲内で」自分の欲望のおもむくままに、どんどん行動してみては、と若い人たちに勧めています。その時わきまえておくべきなのは、ある一線を越えそうになった時、そこから引き返すことの重要性です。「ぐっとがまんして、欲望から引き返すことが大事なのです」。ですから日頃からその引き返す感覚を全身にしみこませておく鍛錬が必要になるわけです。森岡さんはその範囲内で「欲望を明るく解放すること」が大切だと述べて締めくくっています。
 しかし聖書によれば、そんなに甘くありません。創世3において蛇に偽装されたサタンが登場し、アダムとエバを巧妙に誘惑しています。それに二人はまんまと乗ってしまったわけですが、それは「神の律法」を踏み越えた行為であって「罪」です。かくて二人は神の律法に背く自分中心の欲望が心を占め、罪人として「悪い欲望」に赴くようになりました。
 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(ヤコブ1:14)。
 「自分の」とある箇所に注意!
 では神によって救われ、きよい者と見做された私たちクリスチャンはどうでしょうか。勿論この世で肉体がある限り、そこを狙ってサタンは強力に誘惑して来ます。それに負けたら(一線を踏み越えたら)アダムと同じ「罪」に陥ります。人間は一人ではサタンの力に負けてしまいます。ですからサタンに打ち勝つ事の出来る方が必要です。それは救い主イエス・キリスト聖霊です。現在信じる者の心の中に住んでおられます。
 「そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい」(テモテ第二1:14)。
 繰り返すようですが、一線を越えるような悪い欲望に我慢し、自力で引き返す事はまず不可能で、哲学者の空論です!(失礼しました)。