ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

ストレイシープ(迷羊)とは

 前回久し振りに読んだ夏目漱石の「それから」「こころ」から、信徒としての批判と問題提起を行いました。コメントを寄せて下さった皆様に心より感謝致します。今度それらの作品の前に位置し、水村美苗さんが勧めていた「三四郎」を再度読みました。
 有名なストレイシープ(迷羊)という言葉が出て来る本ですが、昔信仰のなかった頃は、全くこの聖書から採られた聖句の一部が理解出来ませんでした。
 何度も読み返してみましたし、ネットからの読後感なども参照しました。
 主要なテーマは熊本の五高から東京帝国大学に入学した小川三四郎と、帝大付近の都会に住む里見美禰子(みねこ)との淡い恋の物語と言えるでしょうか。
それに帝大理科大学の野々宮とか、その妹のよし子、一高の教師広田などが登場します。
 この本の最初のほうでは、美禰子が会堂(*チャーチとルビがふってあります)に通っている事は書かれていません。本の終わり頃に出て来ます。彼女はその為にストレイシープ(迷羊)の話は良く知っていたでしょう。
 「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか」(マタイ18:12)。
 これはルカ15:4にも出て来ます。特にこのルカ伝において、迷った一匹の羊が誰を指しているか明確に示されています。
 イエス・キリストはこう言われました。
 「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:7)。

 従ってこの迷羊(ストレイシープ)が、神に背いて生活を送っている私たち「罪人」を指しているのは明確です。それは三四郎や美禰子(おそらく救われているけれども、真のクリスチャンではなかったと思われます。エデンの園で夫アダムを誘惑して「善悪の知識の木の実」を食べさせるエバに似ています。救われていても罪を犯し、神から離れ迷う事は、私も頻繁にあります(神との交わりの回復は、上記ルカ伝と同じように罪の「悔い改め」によります)。
 それにしても美禰子の振る舞いは難解です。
 「『迷子』女は三四郎を見たままでこの一言を繰返した…『迷子の英訳を知っていらしって』三四郎は知るとも、知らぬともいい得ぬほどに、この問を予期していなかった。『教えてあげましょうか』『ええ』『迷える子(*ストレイシープのルビ)−解って?』」。
 三四郎は美禰子の真意を図りかねて、この短い句をノートに書き連ねたり、反芻したりしています。
 この場面の「迷羊」は実際美禰子自身を指していますが、聖書の観点からは三四郎も同じです。なぜなら「三四郎は全く耶蘇教(*ヤソのルビ)に縁のない男である」からです。この神に関わりのない者は、皆等しく迷った羊です。
 しかし美禰子は兄の友人と結婚してしまいます。その友人とはたぶん教会に通っていた人だったのでしょう。美禰子はそれでいながら三四郎にも近づきました。これは聖書的ではありません。兄の友人との婚約、またはそれに至らないまでも、祈ってそれが神のみこころかどうか求めてゆくのが正しいのです。(そこに確信がなかったら、三四郎と交際するのは罪ではありません)。
 ですから美禰子は三四郎を前にして、「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」と消え入りそうな声でつぶやいたのです。
 これは旧約聖書詩篇にあります。神への信徒であったダビデは、戦線を離脱し、水浴していた女バテ・シェバを見初めて色情を抱き、姦淫の罪を犯しました。しかもその夫のウリヤを激戦地に飛ばして戦死させます。さらにダビデはこのバテ・シェバをも妻として迎え入れました。これが主なる神のみこころをはなはだ損ねたので、神は預言者ナタンを彼のもとに遣わして、その罪を露わにされました。その時ダビデは悔い改めて、この詩篇を作りました。
 「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります」(詩51:3)。
 この私が三四郎では美禰子の事になるのでしょう。彼女はダビデほどの大罪は犯しませんでしたが。
 ネットを閲覧しても、この迷羊(ストレイシープ)が一体誰の事か詮索されています。しかし聖書によれば、神に背いている全ての人が罪人であり、人生の迷った道を歩んでいます。