ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

パスカルの『パンセ』をどう読むか

 フランスの哲学者、数学者、神学者などと呼ばれ多様な働きをしたパスカルの名前を最初に知ったのは、三木清の『パスカルに於ける人間の研究』を通してでした。
 三木自身はその活動の為に投獄され、終戦後に獄死しました。ネットで調べるとまだ48歳の若さでした。残念な事です。極めて美しい文章を書く人で、『人生論ノート』などはよく大学入試の国語試験で出題されていました。
 それでとにかくパスカルの『パンセ』が読みたくて(他にもサガンの『ブラームスはお好き?』など)、第二外国語のフランス語を懸命に勉強し、たぶん2年の終わり頃、丸善で買って読んでいたような気がします。同じ頃比較の為にモンテーニュの『エッセイ』も読みましたが、あまり印象にありません。
 このパンセに有名な言葉が多く散りばめられています。哲学者の森岡正博氏は9月26日の「生きるレッスン」という朝日新聞の欄で、「この一冊に出あう」と題して随筆を書いています。森岡氏はパンセとの出会いで人生を変えられてしまうほどの衝撃を受けたそうですが、この随筆のはじめに「人間は考える葦である」(347。以下前田陽一訳の番号による)という、おそらく最も有名な言葉を引用しています。そしてその解説の為に、およそ次のような要約(私の若干の主観も交えて)をしています。
 人間を取り囲む宇宙の巨大さには果てがなく、それに比べれば人間は無に過ぎない。一方ダニを考えてみると、その小さな生き物中で目に見えない無数の働きがある。それもさながら宇宙のようで、それに比べれば人間は無限に大きい。だから人間はその中間で宙ぶらりんな存在であり、頼るものもなく悲惨で、永遠の絶望のうちに沈んでいる。しかし人間には思考力があり(これが考える葦という事)、そこに宇宙と対等に向かい合う事が出来る「人間の最後の尊厳の砦」が存在するという感じでしょうか。この要約箇所はパンセ72に出て来ます。
 考える葦を含む339−424までの箇所は、第六章「哲学者たち」となっており、哲学者である森岡氏にとっては、この箇所こそパスカルの真髄だと考えているかもしれません。しかし私は違います。森岡氏については既に9月のはじめのブログでも批判しました。別に森岡氏が嫌いとかいう事ではありません。信仰者にとっては、観方が森岡氏の哲学的なそれとは全く異なるのです。だから森岡氏は上記パンセ72の引用の直ぐ後にある、虚無と無限を包含する「不思議の創造主」を見落としています。それはこの天地万物を造られた創造主である神です!
 このパンセは全体にわたり聖書箇所が多用されていて、哲学書というよりもほとんど神学書であると言えます。
 従って「頼るものもなく悲惨で、永遠の絶望のうちに沈んでいる」人間が「考える葦」であるというからには、パスカルが何を意図して言ったかが問題です。そのかぎが第二章「神なき人間の惨めさ」にあります。それは60に明確です。「第一部。神なき人間の惨めさ。第二部。神とともにある人間の至福…」。そしてその延長上に72があり、さらに先に146があって、そこで考える葦である人間について触れています。つまり「考えの順序は、自分から、また自分の創造主と自分の目的から始めることである」と明快です。その自分とはいかなる存在でしょうか。それは神に背馳し罪を犯した為、死に定められている人間です。この死こそ神なき人間の悲惨さ、永遠の絶望に他なりません。しかしです。
 「私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」(詩63:5−7)。
 詩篇作者はかつてランプもない真っ暗な晩に天を見上げ、その無限の広がりの中に絶望と悲惨さと恐怖を見出した事でしょう。しかしその天から創造主は助け主としてのイエス・キリストを地上に送って下さったのです。この助け主を信じた時、神は賜物として永遠のいのちを授けて下さいました。虚無に服していた人間が永遠の存在である神と共に世々限りなく生きる!そこに詩篇作者の至福がありました。
 一方快楽にふけり、努めて死を考えず気を紛らす事にした人間に、死はひたひたと迫って来ます。これこそ惨めさの最大のものです(パンセ171)。